第二地域の集落と第三地域の円福寺裏・偕生園集落は、前述のように同一集落の可能性も強いが、国道十六号線(立川青梅線)沿いは住宅密集地で土器片分布状況が不明確であるため、土器片分布の濃密地を中心に二つの集落を想定した。遺跡は立川青梅線とそのバイパスを結ぶ道路の切通しをはさんで、偕生園の一部から円福寺裏にかけて展開し、切通し掘削の際には平安時代住居跡が破壊されたのではないかと思われる。面積は一万平方メートルを越え、段丘下の立川青梅線と段丘上のバイパスの間で、段丘の縁辺に当る。
採集される遺物は土師器・須恵器で、量的には土師器が多いようである。土師坏には切り離したままの糸底が見られ、九世紀後半から一〇世紀前半に当ると思われる。
拝島段丘の縁辺に営まれた第二・第三地域の集落は、畑地だけではなく、水田耕作にも従っていたと推定される。段丘下の堂ノ前一帯は湧水が豊富で水田となっている所が多く、多摩川河原面との比高差三~四メートルあり、水害が比較的受けにくく、平安時代には水田として開発されていたものと思われる。その後、寺院の造立とともにその門前に集落が営まれ始め、水田面積が今日のように少くなってしまったものであろう。