経塚下遺跡の集落の様子と古墳の位置
土器片の散布はわずかではあるが三ツ木八王子線を越えた地点にまで及んでおり、経塚下集落の外にもう一つ集落が営まれていたことも考えられる。
経塚下集落は東西百メートル・巾三〇メートルの範囲に一〇基の住居があり、この地点から段丘崖までの距離を考慮に入れると、南北はおよそ百メートルに達し、面積一万平方メートルの占地であったと推定される。
住居址の平面形は方形のものと長方形のものとがあり、またカマドのないものが二基発見されている。規模は最大の一号址で約五メートル正方、小さい八号址は三・九メートル×三・五メートルである。カマドはほとんど東壁に設けられていたが、調査者の和田哲氏は北壁にカマドの設けられた住居が最も古く、後に東壁に変ったとされている。このような変化が何に基づくのか明らかではないが、古墳時代後期の山ノ神遺跡の集落でも、カマドは北壁に設けられているのを見ると、経塚下集落の人口が増加しはじめた頃に、拝島段丘の自然環境に変化が起ったのかも知れない。経塚下遺跡の集落は東カマドの時期をもって廃村となった。
経塚下遺跡から発見された遺物は豊富である。須恵器の坏・〓・甕・壺、土師器の甕・坏・〓、愛知県尾北窯址群中の篠岡窯址などで生産されたという灰釉陶器の〓・小瓶、鞴の羽口、風字硯、瓦、鉄製品の刀子・釘・鎌、鉄滓、砥石などが発見され、量的には須恵器が最も多い。
経塚下遺跡出土風字硯
経塚下遺跡の集落は、人口が最高に達したカマドを東壁に設けた時期であっても、東国の集落としては決して大規模なものとは認められない。郷里の中心地では住居家屋が何百も数え、これらの点から経塚下遺跡の集落は郷里の中心とは思えない。風字硯があっても使用されなかったことや墨書土器のないことも、それを裏づけているといえよう。しかし、小規模集落ではありながら、野鍛治の行なわれていたことは自給自足の態勢にあったことを意味しよう。大部分の食糧は集落の生産品であった。遺跡から発見された須恵器・土師器・灰釉陶器、また鉄の原料などは交易によって入手したものであったろう。