広福寺台遺跡は繩文中期・繩文後期・古墳前期・古墳末期・奈良平安時代の複合遺跡で、原始古代を通じてとりあげられてきた。広福寺台遺跡から発見される須恵器・土師器は坏破片が多く、平安時代に属するものと思われる。それらの土器片は台地の中央に多く、繩文式土器の分布地点と若干の違いを示している。台地突端には墓地があり、繩文時代遺構は確められているが、それ以後の時代の遺構は発見されていない。
玉川小学校校庭遺跡とよばれる地域は広福寺台の根元に当り、広福寺台遺跡とは連続している。校庭の東端に花壇を設けたとき、竪穴住居が発見された。なかから土師器甕が出土し、また附近からは土師器・須恵器の破片を採集することができ、平安時代の集落が形成されていたと推定される。運動場の造成や校舎建設の際の状況が不明なので、集落が校地全体に広がっているものかどうか分らない。しかし、土器散布の現状からすると、校地の東側から広福寺台にかけての広い範囲に、平安時代の集落が営まれていたことは間違いない。その面積は二万平方メートルに達するのではなかろうか。
広福寺台は、昭島市域の単調な崖線からすると、わずかではあっても多摩川氾濫原に突出し、また第六地域の常楽院西遺跡の占地する台地も舌状を呈し、比較的複雑な地形といえる。広福寺台の東西両側には、入込んだ低地が形成されており、多摩川氾濫の被害は受けてもひどくはなかったのではないかと思われる。すなわち、玉川小学校・広福寺台遺跡の集落はこの低地に水田を営んでいたと推定される。広福寺台西の低地には最近発見の中神東耕地遺跡があり、集落形成が可能なほど水害は受けにくかったといえよう。古墳時代前期の人々が水田を営んだ場所でもあったろう。
第五・第六・第七地域の集落はほとんど隣接しており、深い関係にあったと思われる。三地域の遺跡面積の合計は、第二・第三地域をはるかに越えるものであろう。昭島市域の平安時代集落の中心はこの地域にあったものではなかろうか。多摩川上・中流域の左岸では、これだけの規模の遺跡を見出すことはむずかしい。