昭島市域のなかで多摩川低地に営まれた唯一の遺跡である。発見の契機は土地所有者西川秀彦氏の車庫建設のための基礎工事であった。工事の際土器が出土しているのを関野博司氏が発見して教育委員会に連絡し、和田哲氏らが現地調査を行ない、確認したものである。現地調査の対象となった車庫建設予定地は都道八王子・立川線から二〇~三〇メートル西に入った市道に面する中神町東耕地一七一番地で、遺構は確認されなかったが、須恵器坏・大甕、土師器坏、灰釉陶器の小瓶、鉄製品、緑釉陶器が発見された。ほぼ完形の灰釉小瓶や緑釉陶器片は昭島市域ではじめての発見であり、東耕地遺跡の集落は段丘上の集落より優れた内容をもっていることが指摘できる。遺物の出土土層は洪水の影響を受け、土師器・須恵器など上層出土の土器は摩滅が激しい。
遺物の発見地点は広福寺台の南西三〇〇~四〇〇メートルのところである。東耕地遺跡の範囲は把握されていないが、集落が営まれたとすれば、少くとも四千~五千平方メートルは占めたと思われるので、広福寺台の集落とはかなり接近していたことになる。ただ両者の集落が同時に存在していたかどうかについて明らかではないから、深い関係は想定できてもそれ以上は分らない。もしかすると、広福寺台の人々が低地におりて集落を形成したのかも知れない。
しかし、いずれにしても今日分っているかぎり、多摩川低地を積極的に開発した最初の集落であることには変りない。東耕地遺跡集落の人々は段丘の畑地耕作をすて、水田耕作に生きた昭島人といえよう。彼らの叶器に豊富な灰釉陶器が加えられ、緑釉陶器まで使用できたことは、集落外との交易が盛んであったと思われる。すなわち、官衙との接触が密であったことを示している。