一 摂関政治

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大日堂内の大日如来座像(西幸次郎氏撮影)

 摂関政治は、天安二(八五八)年の文徳天皇崩御後、あらたに即位した清和天皇(このときまだ九歳であった)の後見人として、その外祖父にあたる藤原良房が事実上の摂政(せっしょう)に(良房が勅命によって正式に摂政となるのは、それから八年後の貞観八年のことである)、また元慶四(八八〇)年に藤原基経が関白(かんぱく)に任ぜられたことに始まる政治形態である。すなわち、藤原氏は、天皇を自己の血統のなかから出すことによって、外戚としての地位を獲得し、天皇が幼少の頃には摂政として代わって執政にあたり、成長するにつれて関白と名付けて太政大臣の執務につき、常時政権を掌握しようとした。そして大臣以下、大納言・中納言・参議の過半数は藤原一門で占められていたので、摂関家の家政を司る政所(まんどころ)に政治の中心が移っていくというぐあいに、律令政治の形態は著しく変貌した。政所から出される外文(げぶん)や御教書(みきょうじょ)が、それまでの宣旨(せんじ)に代わる性質を有するようになり、朝廷は単なる儀式の場と化していったのである。しかも藤原氏は、実際上の政治運営は何ら具体的に行なわず、いわゆる貴族的な文化生活をもっぱら楽しむのみであったため、形式主義と因習化をはびこらせただけであった。このような中央における律令政体の変質と貴族の無力化は、政治の規模を縮小し、やがて一国の行政上に一大紊乱(びんらん)をもたらすことになるのは必然であり、律令体制に根本的矛盾を生みだすようになるのである。