二 在地豪族層の抬頭

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 藤原氏の摂関政治が確立されてくると、やがて藤原氏以外の貴族は中央政権から退けられ、あるいは、たとえ同じ藤原氏でも、摂関家との関係が薄い者は、門閥世襲の弊から、もはや中央政界での栄達は望みようもなくなった。そのため、中・下流の貴族たちは、まず国司たる地方行政官として任国に赴任した。しかし彼らは、その任国をたんに徴税の対象とみなす徴税吏となり、徴収した正税は国司個人の財源とするなど、国司としての権限と貴族としての門閥を充分に利用して、地方豪族と結び、自己の勢力を扶殖することに努めたのである。一方、中央では、その国司の任免権が朝廷貴族の収入源をなし、年給・成功(じょうごう)などによる売官・売位が盛んに行なわれた。すなわち年給とは、官人の補任にさいして候補者推薦の権利を皇族や貴族に分与し、それを希望者に入札させて、その落札料を収取するという方法であり、成功とは、朝廷の宮殿修築や寺院建立、遊宴などの費用を進んで寄進した者に対して、その代償として国司に任じることをいうものであった。したがって国司の任期が満了となっても、再び寄進をすればひきつづき任務を重ねることができるという重任(ちょうにん)が認められたのである。
 国司に任じられて現地に赴任する者を受領(ずりょう)と呼び、それに対して、自らは京都にとどまって任国には配下の者を目代として派遣する国司を遥任(ようにん)といった。この遥任制は、九世紀の初め、上野・常陸・上総において、国司の兼務であった収入を目的として現地に留守所を置き、ここでは目代以下の在庁官人に執務させて、京からは庁宣を発して指示を与えるという方法がとられたことに始まり、律令制の崩壊と武家政権の伸長にともない、しだいに遥任は恒常化されていった。
 このように、官職が財源獲得の目的に利用されるという風潮は、摂関政治の興隆にひと役買うという一様相に比して、むしろ地方政治の状態を極度に乱すものとなった。国司は自己の勢力や収入を増長することのみに力を注ぎ、その支配下に置かれた地方農民は、生活の状況を顧慮されることなく重税に苦しめられていたのであった。そのため農民のなかには、逃亡して浮浪人となる者や、盗賊あるいは不逞(ふてい)の徒となり、また武士になる者が多くなっていた。
 かくして、大化改新以後急速に押し進められた律令制度に崩壊のきざしが見えはじめるとともに、中央政府の威令が地方に及ばなくなると、それにともなう治安警察権に対する人びとの不安は、社会の混乱を招いた。各地で群盗が蜂起し、人馬の殺戮(さつりく)、重宝財物の掠奪、農作物の強奪などが盛んに起こり、政府は役人に命じてそうした群盗の追捕にあたらせたが、国府在庁の官人のみでは取り締まることができないほどの状態となっていた。そこで国司は、実力を有する豪族を所轄管内より選びだし、検非違使(けびいし)・押領使・追捕使(ついぶし)などに任命して、警察権の一部をそれら豪族に委譲することによって、治安の維持を保たなければならなくなった。そしてこのような豪族の族長は、家子・郎党などとのあいだに、ある程度の土地を媒介とした封建的な主従関係を成立させ、すでに私兵として彼らを武装させていたので、これら多数の配下を率いて、国内の治安にあたらせていたのである。そして豪族層は、職務をとおしてさらに財力や武力をたくわえ、武装した私兵もやがて小集団から武士団へと成長してゆくのである。