武蔵の武士団には、その大きなものが一〇党ほど数えられ、なかでも強大なもの七党を、「武蔵七党」と称したのである。その七党をいずれの党とするかは、諸説分かれ一定していないが、それらの主なるもの三説を掲げて比較すると、
(第一説)(第二説)(第三説)
横山党 横山党 横山党
猪俣党 猪俣党 猪俣党
野与党 --- 野与党
村山党 --- ---
児玉党 児玉党 児玉党
丹党 丹党 丹党
西党 西党 ---
--- 綴党 綴党
--- 私市党 私市党
というようになる。以下、これらの党について略説してみよう。
武蔵七党の分布図
横山党 小野篁七代の孫である小野孝泰が武蔵守として下向し、八王子付近一帯の土地を開墾し土着したので、小野党ともいった。武蔵国の党のなかでも随一の勢力を誇り、代々小野牧の別当をつとめた。
猪俣党 横山党と同族。小野孝泰の孫にあたる時範のとき、児玉郡猪俣に移住し、これ以後、猪俣党と称するようになった。
野与党 平忠常の二子である千葉胤宗の子、基宗が、野与の荘司となって土着し、以来、野与党と称した。その地は定かでないが、南北埼玉郡の内であったろうと思われる。
村山党 野与党と同族。平忠常の孫、野与基永の弟である村山貫主頼任の子孫が、代々、北多摩郡村山・狭山・久米川・野口一帯を領有し、村山党を称した。
児玉党 関白藤原道隆の家司、有道刑部丞維広の二子である維能が、武蔵介となって下向し、児玉郡を開墾して土着し、その子、維行も武蔵守となって児玉郡に住み、児玉氏を称した。児玉荘は摂関家藤原氏を本所として寄進され、児玉氏自らはその荘官となって支配権を握っていた。
丹党 丹治氏で、宣化天皇の曾孫にあたる多治比古王の子、左大臣志摩が真人(まひと)姓を賜わって丹〓と称し、のちに丹治と改めた。以来この一族は、しばしば武蔵国司に任ぜられ、秩父・児玉両郡に墾田を営んでついには土着した。また石田牧別当をつとめ、その子孫は秩父・児玉・入間郡にわたって勢力を拡張した。
西党 日奉連宗頼が武蔵守となって下向し、その子孫が代々武蔵国の在庁官人として土着活躍したので、日奉氏ともいう。多摩川流域に分布し、百草・平山・関戸・日野・立川一帯を領有したが、武蔵府中の西に居住するところから西党を称したらしい。領内には由比・小川の牧があり、一族はそれらの別当となって栄えた。
綴(つづき)党 綴喜党とも書く。都筑郡に栄えた武士団で、平氏の一族であったらしく、『古今著聞集』に、「武蔵国の住人つつきの平太経家は、高名の馬乗馬飼なりけり。平家の郎党なりければ、鎌倉右大将召捕らせたまふ」と見える。
私市(きさいち)党 私市氏の出自は定かでないが、祖先は政市部領使でもあったかと思われる。私市家盛が武蔵権守となって下向し、北埼玉郡騎西付近を領有開墾して土着したものであろう。
このほかに秩父党があり、これは村岡良文(前述の平良文のこと)の孫である村岡将常が、武蔵権守となって秩父郡中村郷(のち大宮郷)に居住し、秩父氏を称したのにはじまる武士団である。この地には秩父牧・石田牧があり、将常の子の武基が秩父牧別当をつとめて以来、この秩父郡を中心にして大里・豊島・入間郡にも子孫が分布し、さらに下総・相模にもその力が及んで繁栄した党である。
このような武蔵の一〇党の武士団はいずれも広大な荘園の経営を基盤とし、また牧場の別当・牧監として牛馬を掌中に収めており、このように豊かな経済力の上に強力な武士団を形成したものである。そして広大な原野たる武蔵野を背景にして、縦横に活躍していたのである。