二 多摩郡の大武士団

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 以上のような武蔵国の大武士団のうち、多摩郡と関わりが深いのは、村山党と西党である。
 村山党は、既述のごとく、桓武平氏の出とする村山氏の子孫により形成された武士団で、野与党と同族である。平将門の乱(九三九年)に功のあった村岡忠頼が武蔵押領使陸奥守に任じられ、その子、将常が武蔵権守となって秩父郡中村郷に土着して秩父氏の祖となった。またその弟の忠常は、上総介・武蔵押領使となって、房総から武蔵にかけて勢力を拡げ、その二代の千葉胤宗の子、基宗は野与荘司となって土着し、野与党の祖となった。そして忠常の孫である野与基永の弟、頼任が村山の地に土着して村山貫主頼任を名のり、ここに村山党が独立した。この村山党は、北多摩郡村山・狭山・久米川・山口・野口にかけての、狭山丘陵を後背とした地を領し、また、この一族は、大井・山口・金子・宮寺・広屋・須黒・仙波・荒波多・久米・難波田の諸氏に分かれ、広く北多摩全域にわたって分布していたのである。
 一方、西党は、南多摩の地域に居住して活躍した豪族により形成された武士団で、のちに立川氏をその分派とした。