三 坂東武士の進出

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 さきに略説した武蔵国の九党を、その系譜により分けてみると
  桓武平氏系-野与党・村山党・綴党
  在庁官人系-私市党
  藤原摂関家系-西党・児玉党
  皇室系-横山党・猪俣党・丹党
となり、いわゆる清和源氏に属する武士団が存在しないことに注目される。
 そもそも清和源氏が関東に勢力を得たのは、六孫王源経基が、天慶のころ(一〇世紀半ば)に武蔵介として下向し、のちに武蔵守となったが、その職を、その子である満仲が世襲して勢力を扶植し、満仲の子頼信にいたって坂東武士の棟梁となって以来のことである。やがて頼信の子、頼義は秩父・畠山・横山・猪俣などの武士の勇士を統率して、前九年の役(一〇五一-六二年)で勝利をおさめ、また、その子の義家も後三年の役(一〇八三-八七年)に坂東武士を率いて活躍して以後、坂東武士と源氏の封建的主従関係が深化するとともに、都へ坂東武士が進出することとなったのである。そして、このような都への坂東武士の進出は、やがて武家政権樹立の背景となる動きを宿していたが、まもなく保元の乱(一一五六年)、平治の乱(一一五九年)が起こるにあたって、それは決定的な形となって現われてくるのである。