第一一世紀に入り、代々陸奥の俘因の長であった安倍氏は、胆沢・和賀・稗貫・志波・岩手・江刺の陸奥六郡を領有し、半独立的な族長制を形成していたが、頼良(のち頼時と改名)の代になって、さらに隣郡を攻略し、賦貢や徭役もおさめなかった。そこで朝廷は、永承六(一〇五一)年、源頼義・義家父子を派遣してこれを討伐せしめたところ、頼時は一時帰順したが、天喜四(一〇五六)年再び乱を起こした。頼義・義家父子は再討伐に向かったが、頼時はその子貞任・宗任とともに奪闘し、戦いは長期戦の様相を呈してきた。翌年、頼時は鳥海柵で敗死したが、貞任らの勢力は依然強く、頼義ら征討軍は苦戦を続けていた。しかし、出羽の豪族清原光頼・武則の援助を得てからはどうにかまきかえし、康平五(一〇六二)年九月、七年に及ぶ大乱をようやく鎮圧した。これが前九年の役である。翌々年の康平七(一〇六四)年、頼義・義家父子は都に凱旋し、再討伐のときからこの年まで九年を数えるので、この戦いは普通前九年の役といわれ、また、前後一二年(一〇五一-六二年)に及んだので、一二年合戦とも呼ばれた。
前九年の役後、清原武則は、源頼義を援助した功によって鎮守府将軍となり、安倍氏の旧領に威をふるっていた。しかし、孫の真衡の代になると、義弟清衡・家衡とのあいだに内乱が生じ、真衡の死後も、家衡と清衡の争いが続けられた。陸奥守となって下向していた源義家は、清衡を助けて家衡を討ったが、家衡の抵抗は根強く、寛治元(一〇八七)年にいたって、義家は苦戦の末に金沢柵でようやくこれを平定した。これが後三年の役である。応徳三(一〇八六)年に起こったときより、翌寛治元年の終結を経て、義家が都へ凱旋した寛治二(一〇八八)年までを数えて、このように後三年の役と普通呼ばれている。
この前九年・後三年の役を通じて戦勝を得た源氏の勢力は、東国において不動のものとなっていった。そして、このように築かれた東国での源氏の勢力基盤は、のちの源頼朝の時代にまで続いていくのである。