三 平氏の盛衰

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 一方、中央では、院政の開始とともに、藤原氏の勢力は完全に失墜し、摂関の実権もまったく失われるところとなっていたが、院もまた、その勢力の維持を、朝廷の滝口の武士にならった北面の武士の武力に頼っていた。そのため、武士階級に対して中央政界に進出する機会を与えることになり、北面の武士として名をなした平氏は、東国における源氏とともに、武士の勢力を代表する力をもつに致ったのである。やがて院と朝廷とのあいだに反目が生じて保元の乱(一一五六年)が起こると、平清盛と源義朝は、後白河天皇を擁し、関白の藤原忠通を助けて院方を破り、この両者は中央における基盤を確立した。その結果、武家の棟梁たる地位をめぐって源平二氏の対立が激化し、勢力争いが起こったが、結局、源義家が、後白河上皇の寵臣藤原通憲と結んだ平清盛に敗れ、一族家人郎党は四散し、坂東武士と源氏の棟梁との関係も一時的に破壊されてしまった。これが平治の乱(一一五九年)である。
 平清盛はこの戦功により、武士として初めて公卿に列する従三位を授けられ、ついで従一位太政大臣となった。承安二(一一七二)年には娘の徳子を高倉天皇の中宮として入内させ、外祖父という藤原氏同様の外戚関係において安徳天皇を擁して、ここに清盛は政権を完全に掌握するに致った。しかし、平氏は自らを貴族化しようとしたため、地方武士の離反を招き、また政治の専横化により、院・公家・寺社などの旧勢力との摩擦が生じるようになり、ついに平氏討伐の院宣が源氏に下った。源氏の嫡子頼朝は伊豆よりたって平家追討の兵を挙げ、かくしてわずか二六年にして平氏政権は亡び、やがて、頼朝による武家政治が樹立されることとなるのである。