全国支配の確立をめざす頼朝は、元暦元(一一八四)年一〇月公文所(くもんじょ)(政務一般の事務を扱う機関)・問注所(もんちゅうじょ)(訴訟事務を扱う機関)を設け、さらに平氏滅亡後、叛旗をひるがえした義経・行家を追討することを名目に、文治元(一一八五)年一一月、全国の守護・地頭を補任する権限を朝廷に要求してその勅許を得たのである。ここにほぼ全国支配の基礎と、治安警察権の掌握に対する原則的承認とを獲得したわけである。
以上のような経過を経て成長した頼朝の政権が、いわゆる鎌倉幕府である。普通鎌倉幕府というときは、頼朝によって創始された政府を意味するが、その武家政治の政府=幕府の成立をいつの時期に求められるか。頼朝が鎌倉を本拠地として、内乱を終結に導くまでの間に、武家政府を次第に充実させ、政治組織を作り上げていったもので、一概にいつときめることはできない。しかしただ前述の日本六六ヶ国の総守護職・総地頭職に頼朝が補任されたことは重要な意味をもつものであって、前者は頼朝が全国の警備権を取得したことを、後者は公領庄園における得分徴収権及びこれが進止権(処分権)を取得したことを意味し、ここにおいて頼朝は私の武家の棟梁から、朝廷から特定の権限を与えられた公的の武家の棟梁になったのである。この公認された武家の棟梁の治政の府が幕府であるとみることができる。
ところで、義経はその後、奥州の藤原氏に身を寄せたが、そのことが頼朝に藤原氏征伐の口実を与える結果となった。文治五(一一八九)年七月出陣した「凡そ鎌倉を出ずる御勢一千騎(註七)」の中に、武蔵武士として畠山重忠・足立遠元・吉見頼綱・渋谷高重・横山時広・平山季重・小山田重成等の名がみられる。ここに藤原氏一族は滅亡し、頼朝は事実上全国を支配下に置くことになるのである。ともかく、遅くとも建久元(一一九〇)年頃には、ほとんど幕府の体制は整ったものといえるのである。
奥州征伐の終了とともに、後白河法皇から頼朝の上洛を促す意向が伝えられ、建久元年一〇月ようやく上洛が実現することになり鎌倉を発した。一一月七日にはじめて入洛した頼朝は、法皇から権大納言・右近衛大将に任ぜられた。なお入洛の際の模様は『吾妻鏡』に詳しく紹介されているが(註八)、その際頼朝に扈従した歴戦の勇士は三一三人といわれ、そのうち武蔵武士が約一四〇人をしめ、その全体数のほぼ半数に及んでいる。彼等が頼朝の家人として、鎌倉政権の成立に果した功労がいかに大きかったかを知ることができよう。鎌倉幕府構成の礎は、武蔵武士がその中枢であり、その基礎の上に幕府が成り立っていたといってもよかろう。頼朝はこの年の暮には、先の官職を辞して鎌倉に帰り、翌建久二(一一九一)年正月、鎌倉の政庁を整え、公文所を政所(まんどころ)内の一部局とし、頼朝の出す命令書も政所下文(くだしぶみ)の形式に統一された。次いで翌建久三(一一九二)年七月、頼朝はここに法皇が容易に許さなかったといわれる征夷大将軍に法皇の死(建久三年三月)後に任ぜられたのである。これをもって幕府の開始とする説もあるが、しかし頼朝は建久五(一一九四)年に征夷大将軍を辞職しているのであるから、これをもって幕府の開始とすることはできない。
建久六(一一九五)年三月、頼朝は東大寺復興の供養に参列するとの名目で、妻子をつれて二回目の上洛をしている。この際の随行にも多くの武蔵武士が含まれている。この時点において、頼朝の政権はまったく安定するのである。
補註
一 『愚管抄』巻第四。
二 『玉葉』治承四年九月三日の条。
三 『吾妻鏡』治承四年一〇月六日の条。
四 『吾妻鏡』治承四年一一月四日の条。
五 『吾妻鏡』治承四年一二月一四日の条。
六 『吾妻鏡』治承四年一二月二二日の条。
七 『吾妻鏡』文治五年七月一九日の条。
八 『吾妻鏡』建久元年一一月七日の条。