一 武蔵の国司-武蔵守を中心として-

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 頼朝は、元暦元(一一八四)年六月五日の小除目(じもく)で、武蔵・駿河・三河の三ヶ国の知行主となっている。その後、文治二(一一八六)年三月一三日の頼朝の書状によると、「頼朝知行の国々は、相模・武蔵・伊豆・駿河・上総・下総・信濃・越後・豊後等なり(註一)。」と記されており、九ヶ国の知行国を独占しているのである。とくに豊後を除くそのほとんどが東国に存在していたことは、先の寿永二年の「東国沙汰権」と合わせて、頼朝の東国支配権の確立を意味するものである。しかし将軍家の知行国は、その後減少し、幕末に至るまで終始変わらなかったのは、武蔵・相模・駿河の三ヶ国と承久以後に越後も加えて四ヶ国にすぎなかったという(註二)。こうみてくると、ここで問題としてとりあげる武蔵国は、鎌倉幕府にとっていかに重要な一国であったかを窺うことができる。そこでその武蔵国に対する鎌倉幕府の支配は、一体どのように行なわれていたであろうか。
 八世紀以来の国司の制度と機能は、鎌倉時代になっても維持されており、武蔵の国司は、頼朝の知行国の中でもとくに重要な職務であった。武蔵国で鎌倉幕府の時代となって最初に任命された武蔵守は、甲斐源氏の一条忠頼であるといわれている(註三)。しかしこれは疑問の存するところである(註四)。確かなことは源義家の弟義光の孫にあたる甲斐源氏の平賀義信が、元暦元(一一八四)年六月五日に頼朝の推挙で武蔵守を受領していることである。源氏の有力な一員である義信が推挙されたことは、東国武士の多く住する地、武蔵国を重要視していたからにほかならない。なお頼朝は武蔵国には別に守護をおかず、武蔵守義信に他国の守護に相当する任務も兼ねさせていたのである。

頼朝の知行国
(石井進『鎌倉幕府』による)

 義信は終始頼朝の重臣として従い、武蔵守として武蔵支配に身を投じ、河越庄の年貢未済の督促、太田庄の堤防工事、武蔵染殿・絲綿所の充実などを行なっている。その治績は頼朝の意にかない、建久六(一一九五)年七月「武蔵国務の事、義信朝臣の成敗、尤も民庶の雅意に叶ふの由、聞召し及ぶに就いて、今日御感の御書を下さると云々。向後、国司に於ては、此時を守る可きの趣、壁書を府庁に置かると云々(註五)。」というように、頼朝は義信に御感の御教書(みきょうじょ)を与え、今後武蔵の国司たるものは義信の前例を学んで守るようにと、武蔵の府庁(国衙)に壁書にさせ、その功績をたたえている。そして翌七年には武蔵の検地を実施している。
 頼朝の死(正治元年正月一三日)後、梶原景時の誅伐、阿野全成の謀殺、比企能員の乱などと事件が起きているが、その間武蔵守として国務をとったのが義信の子朝雅(朝政)である。朝雅は武蔵国の大田文(おおたぶみ)(国内の田地の面積、領有関係などを記録した土地台帳)を整えて、幕府の財源を確保している。建仁三(一二〇三)年一〇月、京都警固のため上洛軍の責任者として朝雅は上京しているが、その留守中武蔵国の支配を行なったのは朝雅の舅の北条時政であった。時政は武蔵国務を自ら行ない、武蔵守を手中に入れたいと思っていたらしい。そのため当時武蔵国の有力者で、在地に根づよい力を張っていた畠山重忠等の存在が大きな障害となった。そこで元久二(一二〇五)年六月、重忠を除くため時政と朝雅が組み、時政は謀計を用いて重忠を武蔵国二俣川で討ち取ったのである。そしてさらに畠山事件が落着してわずか二ヶ月たらずで、時政の後妻牧の方が女婿の朝雅を将軍にしようとした牧氏陰謀事件が起きている。その結果は、時政は隠退し、時政の子義時が執権となって朝雅を討伐している。こうして畠山氏・平賀氏を亡ぼした北条氏は、ここに武蔵の国衙機構を掌握することになるのである。
 建永二(一二〇七)年正月一四日、執権義時の弟時房が武蔵守になっているが、このときはじめて北条氏直系の人が武蔵守になったのである。将軍実朝は、国守に就任した時房に「国務の事は、故武蔵守義信入道の例に任せ、沙汰致すべきの旨仰せ下さる云々(註六)。」というように、国務の事は平賀義信の先例を継承すべきことを命じている。つまり義信の国務執行は、壁書にされたように幕府にとって後世の模範となるような立派なものであったわけである。時房も武蔵守在任中は、忠実に義信の例にならって国務を行なったのである。そこで時房の治績をみると、建永二年三月、幕府は「武蔵国荒野等開発せしむべきの由、地頭等に相触るべきの趣、武州に仰せられると云々。広元朝臣之を奉行すと云々(註七)。」と、時房を通じて武蔵国の地頭等に国内の荒野開発を命じている。続いて承元四(一二一〇)年三月、時房の大切な治績の一つである武蔵国の大田文の作成を指令している。建暦二(一二一二)年二月には、武蔵国内の各郷に郷司職を任命するなどして、時房は武蔵国の支配を意欲的に進め、建保元(一二一三)年の和田合戦以後の建保五(一二一七)年まで武蔵守を続けている。時房の以上のような督励は、武蔵国の伝統的な武士団の支配を幕府の統制に入れ、かつ武蔵国の経済力の増強さらには幕府財政の確保を計ったものであった。ところで、北条氏は武蔵国を非常に重視しており、その後は鎌倉時代の大部分の時期を北条氏一門の人々へこの武蔵守の職を伝えていくのである。その意味でも時房の受領は重要な意味をもつものである。
 建保五(一二一七)年一二月、時房は相模守に転任し、後任に大江広元の子親広が武蔵守に就任している。しかし親広の武蔵守在任期間は、一ヶ年の短期間であって、建保七(一二一九)年二月には京都守護となって上京している。そのあとを受けてその年の一一月に、北条泰時が武蔵守となっている。泰時は承久三(一二二一)年五月、承久の乱の勃発に際し幕府軍を率いて西上し、翌月後鳥羽上皇方を破って入京している。元仁元(一二二四)年執権義時が逝去すると、京都にとどまっていた泰時は鎌倉に帰って執権となり、翌嘉祿元年(一二二五)年一二月には、幕政を円滑に運営するために評定衆を設けているのである。
 泰時はそれまであまり武蔵の国務を顧みる余裕が乏しかったが、ここに執権政治確立の見通しがたつと、嘉祿二(一二二六)年四月一〇日、秩父一族の有力な家柄である河越重員を武蔵国留守所総検校職(るすどころそうけんぎょうしき)(武蔵国府にいて国務を総理する職掌で、当時の他国の守護にも匹敵するような職務内容をもっていたらしい)に任じている。この総検校職については後述するが、つまり河越氏を総検校職とし、北条氏の武蔵支配に全面的に協力させつつ、北条氏による武蔵支配体制を安定させていったのである。
 武蔵国の支配体制の整備とともに泰時がとくに意を用いたのは、武蔵国の開発の促進である。当時水利に恵まれない武蔵野の荒野を、御家人である武蔵武士が自力で開発することはほとんど不可能であった。そこで泰時は、幕府みずから開発事業を行ない、それによって武蔵国の御家人に新たに開かれた耕地を分与し、彼等の経済力を助け、ひいては武蔵国を経済的に発展させようとしたのである。
 泰時はまず寛喜二(一二三〇)年正月、太田庄内の荒野の新開を命じており、このときの奉行は被官の尾藤道然であった。次いで貞永元(一二三二)年二月には、尾藤道然と石原源八の二人を奉行として派遣し、地頭御家人の領内から「百姓一人を漏さず催し具すべし、在家別に俵二つ之を宛つべし(註八)。」として、榑沼(くれぬま)堤の修理を命じている。
 暦仁元(一二三八)年四月、泰時はおよそ二〇年にわたる武蔵守を辞任して、時房の子である大仏朝直に譲っている。しかし泰時は辞任後も以前と国務を掌握し、延応元(一二三九)年二月には、佐々木泰綱に小机郷鳥山の荒野を水田に開発するように命じており、さらに仁治二(一二四一)年一〇月、武蔵野に灌漑施設を開鑿することを定め、一一月四日武蔵野開発の御方違(かたたがえ)と称して、泰時は将軍頼経をいただき和田義景の武蔵国鶴見の別邸にまで出むいている。また同月一七日、泰時は武蔵の御家人箕勾師政に、その父政高の承久の乱における勲功賞として、多摩郡内の水田開発予定地の荒野を宛っている。この行賞は毎年のように申請されていたが、しかし幕府には与えるべき土地がないため今日まで延引されていたのである。つまり御家人たちに与えるべき恩賞の土地が足らず、行賞を引き延していたことにも武蔵野開発に幕府をして乗り出させた一つの要因があったものと考えられる。そしてその年の一二月二四日には、「多磨河を掘り通し、その流れを武蔵野に堰き上げて、水田を開く(註九)。」という大事業の施行を終わらせている。
 以上のように泰時は、武蔵守辞任後も武蔵国務を執行し続けていたため、現任の武蔵守は次第に名目的な地位となり、その後は、武蔵国務は経時-時頼-長時-時宗-貞時-高時と、北条氏嫡流の家督(得宗)の掌中に帰していったのである。そしてここに得宗専制体制といわれる政治体制ができあがるのである。なお武蔵守は泰時の辞任後、鎌倉幕府滅亡に至るまでの間に一三人を数えている。ところで、武蔵の国務を握った歴代の得宗は、鎌倉にいて武蔵国の留守司令官というべき武蔵国留守所総検校職→在庁官人に指令して、武蔵の国務を行なわせていたのである。このようにこの総検校職は、武蔵国の支配体制を考える場合に、重要な意義をもった職掌であったといえる。