二 武蔵国の在庁官人-総検校職を中心として-

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 前述したように鎌倉時代になっても、国司の制度は維持されており、地方庁の国衙(国府)も存在していた。国衙には国守の命によって事務をとっていた下級官人がおり、彼等を一般に「在庁官人」と総称した。国守は実際には鎌倉にいて国衙に下向せず、総検校職(目代)を派遣して、在庁官人等を率いて政務を執らせていた。これを遙任(ようにん)という。在庁官人等は平安末期頃には土着、世襲してすでに武士化し、鎌倉幕府成立とともにその配下となり、御家人になっていったケースが多いのである。ところで、総検校職(目代)と在庁官人とで構成する執務機関を普通「留守所(るすどころ)」と称している。では留守所において実際に事務をとった在庁官人等は、一体どのような仕事をしていたであろうか。この点については、石井進氏は次の五つの職務内容をあげている(註一〇)。
 (一) 宣旨・院宣など、中央朝廷からの命令の受理とその施行、実施。
 (二) 伊勢神宮造営の役夫工米あるいは大嘗会米など、一国の庄園や国衙領に平均にかけられる諸役の賦課とその徴収。
 (三) 一宮・国分寺など、国衙と関係深い国内寺社の修理造営とその興行。
 (四) 複数の荘園本所間における堺相論の裁決。
 (五) 国中雑人訴訟の裁判など。
 これらの職務執行のために在庁官人等がとくに大切にしたのは、課税台帳である戸籍の計帳や、土地台帳である大田文などで、その保管は重要な職務であった。
 在庁官人は行政事務に直接当った事務官であるが、留守所である国衙の中ではそれぞれ分課的な「所」を構成していた。それを「在庁の所」と称する。例えば税所(さいしょ)、これは現在の税務所のような役割をしていた。つまり租税の徴収や、出挙のことを司った。帳簿の大帳(計帳)を保管している大帳所、そこには惣大判官や大判官等の役人がいた。田地の坪付などを保管した田所、これは田所検校所あるいは田所庁事などといわれた。正税などの運送を分担した所といわれる国掌所、これは国雑掌ともいう。官物返抄など公文を取扱った公文所、職人を支配する細工所、以上のほかに出納の所、調べる調所、検非違使の所、御厩・小舎人の所などがあげられる。このように在庁官人が、それぞれ在庁の所の役人として配置されていたのである。
 嘉祿二(一二二六)年四月一〇日、河越重員は「武蔵国の留守所の総検校職」に任命されたことは前述したが、その頃執権でありかつ武蔵守であった泰時は、幕府の職務分掌の体制づけの必然性を痛感していたらしい。そこでそれに応じるかのように河越重員任命より五年後の寛喜三(一二三一)年、留守所総検校職の職掌が問題とされたのである。そのときの様子が『吾妻鏡』に「河越三郎重員は、武蔵国の惣検校職なり。当職に付いて、四ヶ条の掌事あり。近来悉く廃れ訖んぬ。仍て例に任せて、執行すべきの由、武州愁へ申すの間、岩原源八経直を奉行として、今日留守所に尋ね下さると云々(註一一)。」と記され、さらに「河越三郎重員の本職四ヶ条の事、去る二日留守所に尋ね下さる。秩父権守重綱の時より、畠山二郎重忠に至るまで、奉行し来るの条、重員の申状に符合するの由、在庁散位日奉実直・同弘持・物部宗光等の去る一四日の勘状、留守代帰寂の同一五日の副状等到来す。仍て相違なく沙汰すべきの由と云々(註一二)。」と記されている。つまり河越重員は泰時に申請して、武蔵国の総検校職には四つの職掌があったが近年はすたれてしまったから、これを復活してもらいたいと願ったので、泰時は留守所の在庁官人等に真否を諮問したのである。この諮問に対する回答は、在庁官人である日奉(ひまつり)実直・同弘持・物部宗光等の勘状(官人等が国衙で諸事を議し、その結果を注記して上申する文書)と、それに留守代の僧職の官人である帰寂の副状までつけられていた。その答申の要旨は、本職の四ヶ条は秩父権守重綱のときから畠山重忠のときまで執行してきており、それは重員の申状に符合するということなので、幕府は重員に申請通り掌るようにといっている。こうして武蔵国総検校職の職務内容は明確になっていったのである。なお右の『吾妻鏡』の記載から武蔵国の在庁官人である日奉実直・同弘持・物部宗光・僧帰寂等の名が知られる。しかし彼等以外には『吾妻鏡』から名を明記した武蔵国の在庁官人をみい出すことはできない。またこの四人の在庁官人の中に、二人の日奉氏の名がみえる。日奉氏は武蔵七党の豪族で、西党とも称し、日奉宗頼が武蔵守となって下向し、子孫が在庁官人となって土着したといわれており、在庁官人の中でもかなりの有力者であったことが窺われよう。
 さて『吾妻鏡』に記されている武蔵国総検校職の職務内容と思われる「当職に付いて、四ヶ条の掌事あり」、「河越三郎重員の本職四ヶ条」の四ヶ条とは、一体何をいうのであろうか。そこで『吾妻鏡』の貞永元(一二三二)年一二月二三日の条をみると、「武蔵国の惣検校職并びに国検の時の事書等、国中の文書の加判及び机催促の加判等の事、父重員の譲状、河越三郎重資、先例の如く沙汰を致すべきの由、仰せらるると云々。」と記されている。つまり
 (一) 武蔵国総検校職(在庁官人を統率することであるが、しかしまた守護の行政的職務に相当することも行ったようである。)
 (二) 国検のときの事書(土地台帳の「大田文」作成の際、その事書に署名捺印すること。)
 (三) 国中の文書の加判(国衙から発布する諸種の文書に加判すること。)
 (四) 机催促の加判(人事関係の書類に加判することらしいが、具体的には不明である。)
の以上四ヶ条が、総検校職の掌事四ヶ条の具体的内容と思われる。つまり当時の他国の守護にも匹敵するような職務内容をもっていたことが窺われるが、このことは武蔵国に守護を設置しなかったこととを考え合わせれば充分理解されるであろう。
 ところで、在庁官人の頂点にたつ武蔵国総検校職は、『吾妻鏡』の以下の記載、(一)「武蔵国の諸雑事等、在庁官人并びに郡司等に仰せて、沙汰致さしむべきの旨、江戸太郎重長に仰せ付けらるるところなり(註一三)。」、(二)「河越三郎重員、武蔵国の留守所の総検校職に補せらる。これは先祖秩父出羽権守以来、代々補し来ると云々(註一四)。」、(三)「河越三郎重員の本職四ヶ条の事、去る二日留守所に尋ね下さる。秩父権守重綱の時より、畠山二郎重忠に至るまで、奉行し来るの条云々(註一五)。」からみて、秩父権守重綱が総検校職に補せられて以来、代々江戸氏、さらに畠山氏、そして河越氏に移ったものと考えられる。秩父牧の別当から発展し、武蔵国の在庁官人の中でも最も有力な秩父氏の一族、つまり江戸・畠山・河越三氏の間で総検校職は受け継がれてきたのである。彼等は国内の豪族たちを押えて統治の体制を国守-得宗の下において守り続けたのである。なお元久二(一二〇五)年六月、畠山重忠が滅亡した後、武蔵守北条時房は総検校職をおかなかったが、泰時になって前述のように河越重員を「これは先祖秩父出羽権守以来、代々補し来る云々。」ということで総検校職に任命しており、さらにその職は重員からその子重資に譲られている。

秩父(畠山・河越・江戸)氏略系図

 先の『吾妻鏡』の記載により、武蔵国の在庁官人の名が四人明らかにされているが、さらに「金沢文庫文書」の中に、武蔵の国衙に関して数通の文書の断簡があり、その中の五二一六号の文書(六所宮祭礼散用状、建治三~四年頃のものか(註一六))によって、国掌弘吉・国清・宮内丞・吉宗・佐野五郎・矢五郎入道・平内将監・宗守・友慶・権平太入道・草藤兵衛尉・平刑部一郎・箕勾兵衛尉・恒守・恒延・調所加納景吉の在庁官人一六人の名を知ることができる。この中の箕勾兵衛尉は、前述の仁治二(一二四一)年一一月に泰時によって多摩の荒野を宛行なわれた箕勾師政の一族であると思われる。また「称名寺旧蔵文書」(「金沢文庫文書」五七五五号、武本為訓氏所蔵文書)の中に、分倍河原の河防ぎに関する一文書(左兵衛尉定佑・沙弥阿聖連署書状、永仁頃のものか(註一七))がある。それに在庁官人と考えられる左兵衛尉定佑と沙弥阿聖の二人の名がみえる。それでは武蔵国には在庁官人が何人くらいいたものであろうか。その実態は不明であるが、東国の常陸国では六一名の在庁官人が連署した文書(註一八)が残っているところから推して、六〇名から一〇〇名近い在庁官人がいたのではなかろうかと推定される。

六所宮祭礼散用状(金沢文庫所蔵)

 以上のように鎌倉幕府は、律令制の古い名称である国守とか留守所総検校職などを用い、国衙機構を利用して武蔵国の行政を遂行したのである。そしてやがて、国衙機構は北条氏の得宗支配下に組み込まれ、その得宗家の武蔵国支配の手足として働きを演じたのが国衙の在庁官人等であった。
 補註
 一 『吾妻鏡』文治二年三月一三日の条。
 二 佐藤進一「関東御分国考」(『法制史研究』一)三〇〇頁。
 三 杉山博「鎌倉初期の武蔵の国司」(『府中市史史料集』(五))一七六頁。
 四 立川市史編纂委員会編『立川市史』四六三~四六四頁。
 五 『吾妻鏡』建久六年七月一六日の条。
 六 『吾妻鏡』承元元年二月二〇日の条。
 七 『吾妻鏡』建永二年三月二〇日の条。
 八 『吾妻鏡』貞永元年二月二六日の条。
 九 『吾妻鏡』仁治二年一二月二四日の条。
 一〇 石井進「鎌倉幕府論」(岩波講座『日本歴史』中世1)一一六頁。
 一一 『吾妻鏡』寛喜三年四月二日の条。
 一二 『吾妻鏡』寛喜三年四月二〇の条。
 一三 『吾妻鏡』治承四年一〇月五日の条。
 一四 『吾妻鏡』嘉祿二年四月一〇日の条。
 一五 『吾妻鏡』寛喜三年四月二〇日の条。
 一六 石井進「金沢文庫文書にあらわれた鎌倉幕府下の武蔵国衙」(『金沢文庫研究』一一-四)一~六・一六頁。
 一七 世田谷区役所編『新修世田谷区史 上巻』三二七頁、昭37。
 一八 杉山博「鎌倉時代の在庁官人」(『府中市史史料集』(十二))三三頁。