一 集落の発展

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 武蔵国が頼朝の知行国になり、鎌倉に幕府が開かれると、『吾妻鏡』に「多磨河を掘り通し、その流れを武蔵野に堰き上げて、水田を開く(註一)。」と記されているように、幕府は広大な未開の原野武蔵野の開発に乗り出している。しかし『吾妻鏡』の記載のように、多摩川の水を灌漑用として開田を行なったとしても、その地域は多摩川流域の低地、あるいはその附近の荒地を対象としたものであって、台地面には及ばなかったものと思われる。幕府の武蔵野開発に従って実際に取り組んだのは在地の武士たちであったろう。昭島に近い多摩川流域の立川・日野などには武蔵七党の西党の立河氏・西氏がおり、浅川の沿岸には横山党といった武士団が勢力を占めており、彼等の一族が開発に精を出したものと考えられる。そして彼等の日常生活も水田を作ることにより、鳥獣・川魚・果実などに頼らず、米を主食とする生活に移っていったのである。このように稲作を行なう水田経営をもって主な経済生活の基礎とするようになった時代においては、集落の位置は、水利に恵まれた土地に選ばれたことが首肯される。そこで中世における武蔵野台地の居住地域をみると、主として侵蝕谷の谷頭やその流域及び台地周縁の丘陵地などに認められる。これらの地は在地武士の根拠地である居館の分布地域とほぼ一致するし、また板碑発見地の分布とも重なる。そして概ね先史集落の所在地や先史時代の遺物発見地の分布とも一致している。
 今日の武蔵野台地の集落分布状態をみると、その一つの群として、多摩川の河岸段丘上に分布する集落があげられる。これは台地南西縁の多摩川の現河床に近い河岸段丘上に分布する集落で、青梅附近より南東方にかけて、羽村・福生そして昭島を経て立川附近に至る帯状の凝形集落である。これらの集落の大部分は、概ね自然発生的集落として成立している(註二)。ところで、昭島の集落の成立・発展も、多摩川に沿ったつまり水利に恵まれた北側の河岸段丘面あるいは段丘下にみられる。またこの段丘崖には豊富な涌泉がみられ、集落形成には好都合な地であった。因に近世における昭島市域で、多摩川北岸沿いに存する村落を西からあげてみると、拝島・田中(洪水で失われた作目村を含む)・大神・宮沢・中神・築地・福島・郷地の八ヶ村を数える。このうち鎌倉時代頃に顕著な集落化がみられたと考えられるものに宮沢と大神があげられる。
 宮沢については『新編武蔵風土記稿』に、「宮沢村は、郡の中寄東にあり、郷庄の唱を夫ふ、日本橋より、行程十一里、東は中神村に接し、南は多摩川を踰て平・粟之須両村に堺ひ、西は大神・上河原の二村に隣り、北は砂川村に及ぶ、東西僅に三町許、南北凡十丁余、土性真土、砂川村堺は野土なり、水田多く陸田少し、多磨川の分水を引て灌漑とす、村名の起は土人の話に、鎮守諏訪社地にも御手洗の清泉あり、其社を持とせる阿弥陀寺よりも清泉出る所あり、宮社の沼沢といへる義にて、宮沢とは呼しならんといへり、当村往昔の沿革詳ならず、」と記されており、宮沢の地名の起こりについてもふれている。ところで、集落の成り立ちと寺社の創建とは不可分の関連性がある。つまり寺社の創建は、間接ながらある程度の土地の開発を条件としている場合が多く、その立地は集落内かあるいは集落に近く景勝の地が選ばれている。そして次第に地縁関係が結ばれるのが普通である。宮沢には現在由緒ある寺社として、段丘下に真言宗宮沢山阿弥陀寺が、また寺の東側に都道を挾んで隣接する地に諏訪神社がそれぞれ存す。これらの寺社の境内からは現在でも豊かな清水が流出しており、その水を利用して阿弥陀寺ではわさびの栽培が行なわれている程である。また阿弥陀寺の裏方の段丘上には、典型的な平安時代の集落遺跡として「経塚下遺跡」が残されている(註三)。この地の地理的環境が、集落形成にいかに適していたかを窺うことができよう。
 阿弥陀寺は宇津木龍光寺の末寺になっているが、その開山・開基そして開創年代などは現在詳らかにされていない。『新編武蔵風土記稿』に、阿弥陀寺の「境内後背の山丘に古碑数基あり、六字の名号の傍に、観応二年三月二十八日と雕たるもの、或は文和・永和・康応・応永等の文字みゆるものあり、是らによりても古き寺なることしるべし、」と記され、北朝年号をもった観応二(一三五一)年を上限とする古碑が数基存していたことが知られる。なお『武蔵名勝図会』にも「宮沢村新義真言宗宮沢山阿弥陀寺の境内にも『観応二(一三五一)年八月十三日、円阿』の銘ありて六字の名号を草書に刻せる碑あり。外に文和(一三五二~五六)、康暦(一三七九~八一)、応永(一三九四~一四二八)等の古墓碑あり。」と記されている。これらの記載から推測すると、阿弥陀寺の創建は少なくとも南北朝時代まで遡ることができよう。そしてさらに、石田健造氏の調査によると、阿弥陀寺出土の板碑の中に鎌倉時代のものとして建治三(一二七七)年を上限として嘉暦四(一三二九)年一〇月二二日、元徳三(一三三一)年七月二四日の三基が存することを確認されている(註四)。すると阿弥陀寺の開創はさらに鎌倉時代、あるいはそれ以前すなわち平安末期頃まで遡り得るかも知れない。以上のようにみると、宮沢は鎌倉時代には阿弥陀寺を擁し、相当集落化されていたものと考えられる。
 宮沢の西に隣接する大神も、鎌倉時代には相当開発され、集落化されていたようである。大神について『新編武蔵風土記稿』は「大神村は、群の中寄東にあり、郷庄の唱を失ふ、東は宮沢村に隣り、西は田中村に犬牙し、南は多摩川を踰て平村に堺ひ、北は上河原・砂川両村に接す、東西五町、南北八町、村内自ら上下の二区を分ち唱をなす、西を上といひ東を下とす、」と記し、次いで村名の起こりについて二説あげている。「此地古へ大社の神明ありし故、大神宮村と唱へ、或は宮の字を略してただ大神村とも呼べり、今林中におはする所の神明宮は其遺跡なりとす、又一説に相模国に大上と云、古き地名あり、其地より来りしもの、当村を開きし故呼て村名となす、大神に作るは唱への転ぜしなり、今に村内観音寺の山号大上山といふもこの故なりといふ、」しかしこの「二説いづれが是なることを辨せず」と記している。また『大日本地名辞書』には「今大神村と云ひ、拝島の東に隣る。又相接して中神村あれば、神村をば大村、中村と分ちたるものとす。即古書に鴨の里と云へるにあたり、カモ、カミ古言相通なるを知る。和名抄にはカモの郷名なし、小楊郷に近ければ、小楊の中より分れて、鴨の里名を負へる地か。」と記されている。ところで、今日大神には「浄土」と呼ぶ多摩川沿岸の水田を見下す崕地の上の一小地域が存する。「浄土」について、『新編武蔵風土記稿』は「田中村と犬牙せし地にあり、この所に古碑数十基あり、大抵断折して全形のもの少し、文字も蘚剥してさだかならず、其中永和四年・貞治元年、或は永享・延文等の文字みゆるものあり、土人の話に古ここに浄土寺といへる台宗の古刹在しが、其廃跡ゆへに此名ありと云、」と記され、さらに『武蔵名勝図会』には「大神村字浄土と号するところに、古墓碑の断折せしを藪沢の中に積み置けり。応永(一三九四~一四二八)、長祿(一四五七~六〇)以下の数十基あり。」とある。つまり浄土にはかつて浄土寺という天台宗の寺院が存したと伝えている。「この所(浄土)に古碑数十基あり」の記述や「浄土」という地名からみて、浄土の地は寺院の遺跡とも考えられるが、それが浄土寺であったという確証は得られていない。しかし「浄土寺」なる寺院が存したことは、後述する拝島大日堂仁王門の木造金剛力士立像の胎内書などによって明らかであり、浄土寺は鎌倉時代の正和三(一三一四)年にはすでに創建されていたのである。

浄土附近

 また大神には、現在の天台宗観音寺の前身である東勝寺が、鎌倉末期頃には開創されていたとも考えられる。つまり当寺跡の墓地から延文五(一三六〇)年・永享七(一四三五)年などの刻んだ板碑が出土しているのである(註五)。なお東勝寺の存した地は、小字東勝寺通り五一〇番地といわれて、その小字名はその名残りをとどめるものである。その後、寺跡に観音寺持の庵寺が建立され、これを東勝庵と称し、『新編武蔵風土記稿』にある地蔵堂がそれであるという。以上のようにみてくると、大神も鎌倉時代には集落化が相当進んでいたと推定される。
 多摩川に南面し、自然的環境に恵まれた河岸段丘面あるいは段丘下は、集落形成には好都合な場であって、このような地理的環境は昭島市域の西から東に広く多摩川沿いに点在している。鎌倉時代にはそれらの地域はすでに規模の差はあれ、集落が散在していたと考えられる。そしてそれらの集落を結ぶように多摩川沿いの上下道が開発され、東西の交通文化も開かれていったのである。それらの集落の中でも、とくに鎌倉時代に顕著な開発と集落化がなされた地域が、本市域のほぼ中央部に位置する宮沢・大神辺りであった。ところで、昭島市域で現在確認されている板碑は四一基で、このうち年号のわかるものは文献などに残るものも含めて三八基に過ぎない。これを年代別・地域別に分類すると上の表のようになる。この表の中には若干過去において、出土地から移動したものも含まれている可能性もあるが、しかしだいたいの傾向は知ることができる。つまり昭島市域の板碑の三分の二弱はこの宮沢・大神の両村で占められており、年代的にも古いものが存する。この点は昭島の集落の成り立ち・発展をみる上に、重要な意味をもつものである。なお昭島の板碑についての詳述は後節に譲る。

昭島における板碑の時代・地域の分類