二 大日堂とその文化財

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 元三大師あるいは俗に拝島の大師として知られている本覚院の西側丘上に、拝島山密厳浄土寺大日堂と称する古色豊かな仏堂がおちついた佇まいをみせている。この仏堂について次のような話しが伝わっている。村上天皇の天暦六(九五二)年多摩川大洪水の折に、日原村大日谷の大日如来が川洲に流れ着き、村民がこれを奉迎して大神の地(浄土)に一堂つまり浄土寺を建てて安置したのが大日堂の創起であると伝えられている。その後、北条氏が滝山城の鬼門除として今日の拝島の地に移したものであるといわれ、『武蔵名勝図会』にはその移った時期を天文年中(一五三二~一五五五)としている。しかしこれらのことを裏づける確証はないが、ただ他所にあった浄土寺を拝島の地に移したことは充分考えられるところである。浄土寺が他所から移されたとすると、その時期は天文頃ではなく、少なくとも武田信玄父子の滝山城攻めの永祿一二(一五六九)年後のことであろう(註六)。武田軍の滝山城包囲攻撃に際して、大神の東勝寺や駒形神社などが兵火に罹ったといわれている。もしこの時期以前に浄土寺が拝島の地に移ってきていたとしても、おそらく同じように兵火に遇ったことであろうし、鎌倉時代の製作になる木造金剛力士立像なども現存し得なかったであろう。このようにみてくると、浄土寺がかつて大神の浄土の地に存したとみることは、大神の寺社が兵火に罹っていることを考え合わせると疑わしく、滝山城に近い拝島・大神地域よりもっと離れた地に浄土寺が建立されていたものと考えられる(註七)。

大日堂(『武蔵名勝図会』)

 さて現在、拝島のこの地は大日如来像を本尊とする大日堂を中心として、普明寺・本覚院・円福寺そして日吉神社が天台宗一規一画の寺域を構成している。『新編武蔵風土記稿』によると、かつては加えて知満寺・蓮住院・明王院・密乗坊・瀧泉寺の名がみえ、あい具して一山八坊の存したことを伝えている。なお大日堂正面の仁王門には「密厳浄土寺」の総寺号額が掲げられている。この掲額の書について江戸の狂歌師・戯作家として名高い太田蜀山人は『調布日記』の中で、「宮方の書にやいずれも高貴なる人の書なるべし、」と述べている。

仁王門の総寺号額

 大日堂(享保一七年棟札)は現在も規模大きく、間口一四・七メートル、奥行一三・七メートルあって、堂内の大厨子のうち、像高五尺に近い大日如来像を中に等身の釈迦・阿弥陀両如来を安置している。いずれも昭和三九年四月二八日に東京都の重宝に指定されている。
 本尊である木造大日如来(金剛界)坐像は、『新編武蔵風土記稿』にその関係記事として「大日は長一丈二尺、恵心の作なりと、この胎内は秘仏とする処の大日一躯を蔵せり、木の坐像長二寸八分にて、行基の作なるよし、」と記されている。しかし銘文は不詳で、作者などは定かではないが、藤原時代の作であろうといわれている。そこで東京都指定文化財を収録してある『東京都の文化財』(昭和四六年発行)によって、大日如来坐像をみると「寄木造、漆箔、宝髻、白毫水晶嵌入で彫眼。智拳印を結び、条帛を懸け裳を着け、結跏趺坐する。光背は木造、漆箔を施し、二重円光、頭光八葉付、周縁板製、小仏を附ける。台座は木造、漆箔を施し、蓮華座、吹附蓮弁。像身の胸部中央に小さなハート形の切り穴があり、蓋を付ける(後補)。像高は一五七・五センチメートル、膝張は一二四センチメートル。光背二重円光高は一五五センチメートル。台座総高は一〇・六センチメートル、花盤径は一二四センチメートル、最下框径は一七〇センチメートルである。」と記されている。なおこの古作に仏光座を具備してそのまま残っているのは稀である。

木造大日如来坐像

 大日如来坐像の両脇の木造釈迦如来坐像と木造阿弥陀如来坐像については、『新編武蔵風土記稿』に「左右の二像は共に長一丈許、その作知れず、」とある。釈迦如来坐像は、銘文は詳かではないが、藤原時代末期の作といわれ、それも手法に強味があるところから鎌倉期に近い頃のものといえる。『東京都の文化財』には「寄木造、漆箔、螺髪、肉髻で、白毫水晶嵌入、彫眼である。衲衣をまとい、左手は膝上に安じ仰掌である。右手は屈臂し施無畏印を結び、結跏趺坐する。光背、台座(蓮華座)は後世の作。像高は九〇センチメートル、膝張は七二センチメートル。」とある。おそらく製作期からみて造立以来、大日堂本尊の左脇に安置されたものと考えられる。

木造阿弥陀如来坐像


木造釈迦如来坐像

 さて本尊の右脇の阿弥陀如来坐像は、『新編武蔵風土記稿』に「その作知らず」になっているが、しかし像内腹部と背部に次のような墨書銘のあることが明らかにされている。
 (像内腹部墨書)
  阿弥陀仏
   大仏師 大前兵部
   □□江戸ニテ作之□
    元祿五□(年)
      未霜月
  (像内背部墨書)
          手伝 伝兵衛
             吉兵衛
  阿弥陀仏 □長師頭領
          手伝 利兵衛
             伝兵□(衛)
          箔押 市兵衛
           弟子 半右衛門
 この阿弥陀如来坐像は、元祿五(一六九二)年に大仏師大前兵部によって作られたことが知られる。また『東京都の文化財』には「寄木造、漆箔、螺髪、肉髻、白毫水晶嵌入彫眼。衲衣をまとい、来迎印を結び、結跏趺坐する。光背は二重円光、台座は蓮華座。像高は八六センチメートル。」とある。製作年代は江戸中期ではあるが、その作風は古風であって、本尊左脇の釈迦如来像、ことにその側面において近似している。
 以上のように大日・釈迦両如来像は一二世紀、藤原様期で、阿弥陀如来像は元祿年中の作であり、三尊一規のものの復興像と推定されている。ところで、大日信仰であるが、平安時代に入り密教が盛んになると、大日如来を本尊とする祈祷作法が流行し、大日如来の仏像はおびただしく造立されている。ことに浄土教が盛んになった藤原時代に入って一層造立が活況を呈しており、その時期それも鎌倉期に近い頃に、当大日堂の大日如来坐像も造立されたものであろう。
 また武蔵国の珍重すべき鎌倉時代の遺作として、大日堂仁王門の木造金剛力士立像二躯があげられる。ともに昭和三九年四月二八日に東京都の重宝に指定されている(註八)。『新編武蔵風土記稿』に関係記事として「仁王門 南向二間半に四間、表の方左輔右弼長置八尺許、鎌倉仏師運慶の作なりと云、」とあって、金剛力士像は運慶の作となっている。ところが、先般昭島市文化財保護事業の一環としてこの運慶作といわれてきた金剛力士像が解体修理されることになり、まず吽形像が修理された(昭和五〇年)。その結果、像内から墨書銘が発見され、その一つとして首接合部の外側二材に「南無妙法蓮華経」の墨書が縦に四行あり、五行目に「南無妙法蓮華経重光□□」とあった。その二として右腰前面部の内刳箇所を避けて、上部に「南無阿弥陀仏」と四行逆さに書かれ、下方に三段、上下は「南無阿弥陀仏」と六行あり、中に
 ……谷慈孫三郎重光(菅原)……
 ……奉造立為後生……
 ……正和二二年三月六日……
 ……重光自筆重光……
 代官平内家仏師鎌倉住人備前□信造□
と書かれている。このことから製作年代は鎌倉末期の正和四(一三一五)年に造立されたもので、施主は谷慈孫三郎重光(菅原重光)なる人物で、仏師は運慶ではなく鎌倉の仏師備前□信に作らせたものであることが知られる。またさらに修理札も発見され、それによると明和二(一七六五)年に大きな修理が行なわれている。

木造金剛力士立像(吽形)


木造金剛力士立像(阿形)

 さて吽形像に引き続いて阿形像の解体修理も行なわれ(昭和五一年)、次のような墨書銘が明らかにされた(註九)。
 敬白 浄土寺
        右志者為大檀那地頭谷慈孫三郎菅原重光
 一奉□(御力)造立
        現世安穏後生善處子孫繁昌乃至法界平等利益
 正和三年大才甲〓十一月卅(咸)日
     仏子肥前房

阿形像の墨書銘

 阿形像は吽形像造立の前年つまり正和三(一三一四)年に造立され、施主は吽形像と同じく重光で、肥前房なる仏師に作らせたものである。とくにこの墨書銘に出てくる「敬白 浄土寺」の記載は、浄土寺なる寺院が鎌倉時代に存したことを実証する意味で重要である。
 吽形・阿形像の墨書銘に出てくる人物、谷慈孫三郎重光・仏師備前□信・仏師肥前房・賢咸について現段階においては詳らかにすることができなかった。ただ金剛力士像の施主である谷慈孫三郎菅原重光なる人物は、鎌倉幕府の地頭御家人であり、浄土寺の大檀那であったことが知られるが、どこの地頭職であったかは定かではない。また鎌倉時代の金剛力士像は一般に激しい忿怒の表現をし、変化に富んだ動きをしているが、当金剛力士像は対称的に静的で素朴な表現をもった像である。この点を考慮すると、施主である重光の周辺には運慶や快慶のような新しい写実的傾向をもった仏師集団ではなく、前代の様式を伝える集団がいたのではなかろうか。備前□信・肥前房はそれに属する仏師であったろう。そしてまた、重光の信仰形態をみると、宗派的には天台系に属するも、いわゆる「朝題目夕念仏」と呼ばれる信仰儀式の保持者であったようである。
 以上のように、鎌倉時代の銘をもつこの金剛力士像は、彫刻史に関しての問題はもとより浄土寺との関連などにおいても重要な意義をもつ貴重な遺作といえる。今後さらに墨書銘のくわしい調査が必要であり、その成果がまたれる。
 
 補註
 一 『吾妻鏡』仁治二年一二月二四日の条。
 二 矢嶋仁吉『武蔵野の集落』五二~五三頁、古今書院 昭29。
 三 金子浩昌・和田哲『経塚下遺跡』昭島市経塚下遺跡調査会 昭52。
 四 昭島市史編さん委員会編『昭島市史資料編 板碑と近世墓』四五~四六頁。
 五 このほかに文明七(一四七五)年・延徳二(一四九〇)年と刻んだ板碑が出土している。〔山崎藤助『郷土史あきしま』一一頁。『大神部落の研究』九頁。〕
 六 高橋源一郎『武蔵野歴史地理』によると、拝島宿の開創と同時に移ってきたものであろうと述べている。しかし拝島宿の設置がいつ頃であったか明らかではない。
 七 つまり浄土寺の建立されていた地が、拝島に移つるときまで戦いの舞台にならなかったところとも考えられよう。
 八 金剛力士像(阿形・吽形)について、『東京都の文化財』には「ともに寄木造、彩色、彫眼、忿怒相で岩座の上に立つ。阿形は左手を屈臂し金剛杵を執り、右手を垂下し、掌を伏せて五指を開く。右足を踏み出している。像高は三三五センチメートル。吽形は左手を半ば屈臂し拳を作る。右手は屈臂し掌を前にして五指を開く。像高は三二〇センチメートル。」とある。なお吽形については「東京都指定重要文化財修理解説書」が出されており、それには法量、形状、品質構造、損傷状況、修理仕様、特記事項(墨書銘)の報告がなされている。また松永忠興氏は「普明寺の金剛力士像(吽形像)」(『三浦古文化』一九)の中で、形状、木組構造、墨書銘、修理状況などを紹介されている。
 九 脱稿後、阿形像の「東京都指定重要文化財修理解説書」に接した。それには法量、形状、品質構造、損傷状況、修理仕様、特記事項(墨書銘)の報告がなされている。なお墨書銘は、根幹材より前面の部材で正中矧ぎ線より左寄りの寄木材の胸部より股裾に至る両面に記されていることが知られる。〔吽形・阿形像の修理解説書によると、吽形の像高は三三一・一センチ、阿形の像高は三二三・八センチと報告されている。〕