一 幕府の衰頽

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 北条氏による執権政治は、泰時・時頼があらわれその政治は堅実さを加えた。しかしその執権政治の最盛期を過ぎると、商業・高利貸資本家の進出、農民層の台頭、惣領制のゆきづまりなどにより、鎌倉幕府を支える御家人体制は動揺し始めてくるのである。
 このようなとき、文永・弘安の役が御家人層の膨大な負担のもとに闘われ、その戦時状態はいつまでも残った。戦勝によって一片の賠償を得たのでもなかったから、御家人等に対しての恩賞も十分に行ない得なかった。そのため御家人層の窮乏は急速に早まったのであり、彼等の不満の声は次第に高まっていった。御家人の中には所領を売却質入するものが多くなり、幕府存立の基礎である御家人層の動揺が捨ておき難いものとなった。そこで幕府は御家人層の所領保護のために、永仁五(一二九七)年今後の所領の売買質入を禁じ、すでに売却されたものは無償で本主に返却させ、かつ金銭の貸借に関する訴訟は一切受理しないという令を下した。この永仁の徳政令の結果は、きわめて一時的な救済に終わり、かえって金融の条件を不利ならしめることになった。ここに幕府の信望は薄らぎ、一般御家人層の分解はもはや必至なものとなっていった。
 文保元(一三一七)年幕府は守護たちが自分から離れていかないように、諸国の守護たちの注進状に誓詞を述べさせることによって引き止めようとしている。元応元(一三一九)年幕府は山陽道と南海道の国々一二ヶ国の地頭と御家人とに対して、彼等が盗賊をかくまって軍事力の拡大につとめていたので、それを阻止する意味で盗賊を追捕することに努力せよ、という命令を出している。さらに元亨元(一三二一)年には、陸奥国の豪族安東季久一族の反乱が起きている。このように政治上、あるいは治安の上においても慌しい気配を提していた。
 一般御家人層の分解するにつれて、鎌倉幕府の権力が次第に弱体化してくると、これに応じて諸国守護のような地方豪族の中には、北条氏に代わって武家の政権を握ろうとするものもあらわれて内訌が続いた。当時の幕府の執権北条高時は、一門や有力な御家人の内訌に対しても、もはやこれをおさえる実力を欠いていたのである。あたかもこの頃、皇室は後深草天皇の皇統である持明院統と亀山天皇の皇統である大覚寺統の両統に分かれ、幕府に冷遇された大覚寺統の後醍醐天皇は、幕府を倒す計画を進めていた。正中元(一三二四)年天皇は日野資朝・同俊基等と討幕計画をめぐらし、これを実行に移そうとしたが、事は未然に洩れて、六波羅探題の探知するところとなり失敗に終わっている(正中の変)。天皇はこれに屈せず、元弘元(一三三一)年日野俊基・僧文観等とともに寺社と結び、楠木正成等の協力を得て再挙を図った。しかし同じく事前に発覚してしまい、天皇は京都を出奔して笠置山に立てこもったが、次いでその陥落とともに六波羅に移され、ついに隠岐に配流されたのである(元弘の変)。
 元弘の変の勃発に際して、幕府は大仏貞直・金沢貞冬・足利高氏等を指揮官とした大軍を京都に攻め上がらせており、『太平記』にこのときの軍勢として「入江・蒲原ノ一族・横山・猪俣ノ両党・此外武蔵・相模・伊豆・駿河・上野五箇国の軍勢、都合二十万七千六百余騎(註一)」と記されており、武蔵七党の名もみえ、武蔵国の御家人たちも多数動員されていたことであろう。武蔵武士たちは、まだこの頃は北条氏の命令に従って後醍醐天皇方を攻撃しているが、しかし後述するように、新田軍の鎌倉攻めにおいては大部分攻撃軍に参加しているのである。
 ところで、当初赤坂城に挙兵してはなはだ不振であった楠木正成も奮起し、後醍醐天皇の皇子である護良親王(大塔宮)も吉野に挙兵して、北条高時追討の令旨を発するに至った。これを契機として赤松・菊池・結城氏等の反幕府的な地方豪族等が挙兵したのである。後醍醐天皇はこの情勢をみて、元弘三(一三三三)年閏二月、隠岐から脱出して伯耆の土豪名和長年に迎えられ、船上山に拠った。同年四月幕府は伯耆の後醍醐天皇軍が東上すると聞き、足利高氏等を将としてこれに向わせたが、途中で高氏は後醍醐天皇の綸旨をうけ、丹波国の篠村八幡宮で討幕の旗をあげ、後醍醐天皇方に寝がえったのである。高氏は伯耆より東上してきた先鋒千種忠顕そして赤松則村と合流して逆に京都に迫り、五月七日六波羅を襲ってこれをおとし入れている。このとき六波羅を支持したうちに武蔵七党の武士たちのいたことが『太平記』に記されている(註二)。その翌日すなわち元弘三年五月八日、上野国の豪族で源氏の支族である新田義貞は、上野国で兵をあげ、一族郎党をひきいて鎌倉に攻め入ったのである。これは別に高氏と連絡をとっていたわけでもない。義貞はむしろ高氏と張りあっていたので、鎌倉幕府を高氏より先に倒し、後醍醐天皇の恩賞にあずかろうと考えていたようである。