五月八日の早朝、義貞は生品明神の神前において義旗をあげ、総勢は大将以下わずか一五〇騎だったという。しかしその日の夕刻に越後国から合計七千騎の加勢があって、九日に上野国を出発し、武蔵国に入ると、鎌倉を抜けでていた足利高氏の子で当時四歳の千寿王(後の義詮)が家臣に守られて合流するなど、各地から義貞の挙兵を聞いて馳せ参ずるもの、たちまち二〇万七千騎となったと『太平記』に記されている(註四)。誇大に書かれた軍記物語の兵数はそのまま信用できないが、しかしそれにしてもかなりの軍勢になっていたようである。『太平記』は半ば文学ながらこの攻伐の順路を具体的に伝えている。軍記物語が歴史記録としての確実性に欠けていることはとくに論ずるまでもないが、しかしこの時代は他に一貫した記録がなく、わずかに断片的な文書で歴史を構成しなければならないので、事件の推移、脈絡を知るために『太平記』は有要であり、時代の情勢や思想を示すいみでも重要な史書であるといえよう。
太平記〔西源院本〕(龍安寺所蔵)
ところで、一方鎌倉では義貞の挙兵を聞いて九日に評定を行ない、これをむかえ討つべく大軍を派した。しかし鎌倉方は『太平記』に「兵共コトゴト敷此ヲ晴ト出立タリシカバ、馬・物具・太刀・刀、皆照耀許ナレバ、由々敷見物ニテゾ有ケル、(註五)」と、えらく風流な見世物的な出陣だったらしい。新田軍は一一日入間川に到着し、小手指原で北上してきた幕府軍と遭遇戦を展開している。しかし日没に至っても勝敗が決せず、両軍は互いに退却し、義貞は入間川に鎌倉方は久米川に陣を敷いたのである。翌一二日再び久米川で両軍は戦い、その結果、新田軍は勝利しここに陣を定め、鎌倉方は分倍川原へと退却した。この際に新田軍と戦って敗れた幕府軍の中に、武蔵七党の丹党の加治氏がいる。『太平記』には「加治二郎左衛門入道」と記されている(註六)。ここで注目されるのは、元弘三(一三三三)年五月二二日附で「道峯禅門」のためにたてられた板碑の存在である。この板碑は秩父山地の東南部、西部鉄道元加治駅すぐ近くの円照寺に存する数基のうちの一つである。高さ一六七センチ、幅三八・五~四一・五センチ、厚さ三~四・五センチで、中央に胎蔵界大日・阿弥陀・明王の三尊をあらわす梵字が彫られている。そして下部に
円照寺の元弘板碑
と刻まれている。この「道峯禅門」とは「武蔵七党系図」によると加治家貞にあたり、『太平記』の「加治二郎左衛門入道」とはたぶん同一人であろうと考えられる。つまりこの板碑は、幕府方に参じ鎌倉幕府滅亡の日にその運命をともにした加治家貞のためのものである。加治氏は北条氏得宗家につかえる御内人(みうちびと)(得宗家の被官をいう。得宗権力の基盤となり、またその保護をうけて勢力を振った)であった関係上、義貞攻撃軍の一人として御内人の代表長崎高重等とともに参じている。そして御内人であった故鎌倉炎上とともに殉じたのである。なおこの板碑の銘文は前掲したように「乾坤、孤〓を卓つるの地なし、只喜ぶ『人空にして法も亦空なり』と、珍重す大元三尺の剣、電光影裏春風を斬る」という無学祖元の有名な偈である。これは加治氏の禅宗への傾斜を示すものであろう。なおこのほかに当寺には、『碧巖録』から引用し改作した偈の銘文の嘉元三(一三〇五)年の板碑も存する(註七)。
さて久米川の敗報に接した幕府は、高時の弟北条泰家に強力な援軍をそえて、急ぎ鎌倉を出発させた。一四日の夜泰家は久米川の南方の山野に陣地を敷いた。そうとは知らない新田軍は、翌一五日分倍川原へ押し寄せたが、幕府の新手の大軍に反撃され、多数の死傷者を出して入間川附近まで退いた。この戦いに新田軍に参じた上野の武士飽間斉藤三郎藤原盛貞と同孫七家行が討死をとげていることが、先の加治左衛門入道道峯の板碑の存するところから比較的近い場所である西武鉄道東村山駅近くの徳蔵寺に存する一板碑によって知られる。この板碑は元弘板碑として古くから有名で、高さ一四三センチ、幅四四センチ、厚さ六センチほどの大型の板碑で、上部は欠損しているが、光明真言が梵字で刻まれ、その下に「元弘三年癸酉五月十五日」の年号銘と、「飽間斎藤三郎藤原盛貞生年廿六、武州府中に於いて五月十五日打死せしむ。同じく孫七家行廿三同じく死す。飽間孫三郎宗長卅五、相州村岡に於いて十八日討死す。勧進玖阿弥陀仏、執筆遍阿弥陀仏」と銘文が刻まれている。
新田軍の鎌倉攻めに際して死んだ三人のために玖阿弥陀仏なる僧が寄附を募り、遍阿弥陀仏なる僧が銘文を執筆して、建立したものである。なおこの板碑は元来は近くの狭山丘陵の東側の中腹にたっていたものが徳蔵寺に移されたのだという。ともかく、敵味方にわかれて戦った加治氏と飽間斉藤氏の記念碑ともいえそうな板碑が、比較的近い場所に現存していることは注目に価するし、また当時の武蔵野の歴史を知るうえにも重要な意義をもつものである。そしてさらに、そのときの激戦の一端が由良文書の「市村王石丸代軍忠状」に、「市村王石丸代後藤弥四郎信明、去る五月十一日、御方に馳せ参じ、同十五日、分倍原御合戦に於いて、身命を捨てて、頸を壹つ分捕らしむるにより、則ち見参入れ畢んぬ。」とあるところからも窺うことができる。戦場に近い昭島地方もその戦火の渦に巻かれ、大きな影響をうけたものと思われる。
分倍河原古戦場図(『江戸名所図絵』)
しかしその後、新田軍にも相模国の三浦一族等の援軍があり、一六日未明三浦義勝を先鋒の大将として分倍川原の鎌倉方の陣地を奇襲した。鎌倉方は前日の戦勝に安心し油断していたところを討たれ、徹底的に敗れわれ先にと鎌倉へ向かって逃げ帰ってしまった。新田軍は勝に乗じて町田を通り鎌倉まで一気に進撃し、鎌倉の切通しを攻めることになった。かくて義貞を中心とした武蔵七党・坂東八平氏をはじめとする坂東武士等の活躍によって、激戦の末二一日鎌倉に攻め入り、鎌倉市中での乱戦のうちに二二日北条高時以下一族諸将の多数が自殺して、源頼朝以来一四二年も続いた鎌倉幕府はここに滅亡したのである。
補註
一 『太平記』「笠置軍事附陶山小見山夜討事」の条。
二 『太平記』「越後守仲時已下自害事」の条。
三 『太平記』「新田義貞謀叛事附天狗催二越後勢一事」の条。
四 註三。
五 註三。
六 註三。
七 石井進『中世武士団』(日本の歴史12)二〇九~二一三頁、小学館 昭49。