一 中興政治の瓦解

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立河氏支城跡といわれる福厳寺全景

 鎌倉幕府の滅亡により、後醍醐天皇は船上山より京都に帰って天皇の理想とする公家一統の政治-建武の新政を開始した。この天皇の親政はその理想の大きかった程に実効はあがらず、僅か二年にして瓦解するのである。
 後醍醐天皇の意図するところは、武家政治の否定だけでなく、さらに院政・摂関政治を否認し、天皇政治を復活することであった。しかしそれはいたずらに反動的復古政策を強行し、あまりにも現実無視のため武士層はその新しい政治に失望し、他の何物かを求めようとするに至った。もともと武家が天皇側に加担したのは、天皇の公家中興の理想を理解し、それに協力しようとしたのではなく、北条失政への不満と、天皇に味方して恩賞にあずかり、所領の安堵、一族の扶持によりよい地歩を得たいと望んだことにあったのである。しかしながら、多くの武士たちの希望は裏切られてしまった。恩賞は財源に対して受給者があまりにも多く十分に行きわたらず、また不当に武士の所領を没収して不満を買うなどした。そのうえそれらに基づく訴願に上京してくる武士が続出し、訴訟の審理は事務に不慣れな人々のために渋滞した。さらにこういう折にもかかわらず、大内裏造営に着手して、その経費を地頭・荘官・名主に課税したから、不平と反対の声は一時に高まった。建武二(一三三五)年の『二条河原の落書』によると、「此比都ニハヤル物、夜討・強盗・謀綸旨・召人・早馬・虚騒動」と、二条河原に口遊(くちずさみ)を落書するものがあって、新政の失敗がよく窺われる。
 建武中興の瓦解を推進した人物は足利高氏である。高氏は早くから北条氏に代わって武家の覇権を握ろうという野心を抱いていたらしく、彼が京都に開いた奉行所には、全国から武士が集まってきて、武士の着到に証判を与えるというような将来の礎石となる政治的処置をとることを怠らなかった。こうして着々と信望を集めていった高氏の実力を建武政権は無視できず、そのため天皇は中興の恩賞として高氏に対してとくにその名尊治の尊字を与え、武蔵・相模・伊豆の三ヶ国を知行国として与えるなど、勲功第一として優遇し、これを懐柔するにつとめたのである。ところで、尊氏の弟の直義は、幼少の皇子成良親王を奉じて鎌倉に下り、関東一〇ヶ国を管轄することになった。その結果、坂東武士たちは直義から所領安堵を受けてその支配下に入っていった。このような状勢下に尊氏は着々とその理想を達成する方策を進め、まず後醍醐天皇の皇子である護良親王と征夷大将軍の職を争い、親王をとらえて鎌倉に幽した。ときに北条氏の残党の乱が方々に起こった。建武二(一三三五)年七月、北条高時の遺子時行は、信濃の諏訪頼重等に擁立されて挙兵した。時行勢は鎌倉を目指して武蔵国に侵入すると、直義はこれをむかえ討つべく出撃したが、しかし時行勢には建武政府に反感をもつ武士が続々と集まってその勢は盛んで、直義勢は敗北に敗北をかさね、ついに鎌倉は時行勢におとし入れられた。この際直義は護良親王を弑して(七月二三日(註一))三河に逃れ、変を京都に報じた。尊氏はここに時機の到来を感じ、征夷大将軍に任ぜられて時行を追討することを請うたが、許されないまま八月二日東下し途中で直義の軍と合体し、一八日に相模川で時行の軍と合戦しこれを打ち破り、一九日には鎌倉を恢復することができた(中先代の乱)。鎌倉に根拠を据えた尊氏は、今や当面の敵を新田義貞一人に集中することができ、義貞の追討を名目としてその基礎の薄弱な新政府の顚覆を図ったのである。
 建武二(一三三五)年一一月、尊氏は直義の名をもって義貞追討の檄文を諸国に下し、ここに朝廷に公然と叛旗をひるがえした。朝廷は尊氏追討に決し、義貞に尊良親王を奉じて東下させたが、一二月箱根竹下の一戦に利を失い義貞は敗退した。尊氏はこれを追って翌建武三(一三三六)年正月入京したが、奥州から尊氏に追尾して入京した陸奥守北畠顕家の軍に敗れて九州に逃れた。しかし尊氏は九州で少弐・大友・鳥津の諸豪族の協力を得てその勢力を回復して東上し、摂津湊川に楠木正成の軍を破り、ついに同年六月京都を占領した。一担敗余落ちのびた尊氏が短期間に盛りかえし得たのは、地方武士が彼に帰向したからであって、建武政権が彼等に不評判であり、尊氏の武家政治再興に期待をかけたからにほかならない。建武三年(註二)八月、尊氏は光明院をたてて皇位につけた(北朝)。一方後醍醐天皇は延元元(一三三六)年一二月吉野に逃れ、光明天皇への譲位を否認して、京都に対立する朝廷(南朝)をひらくに至ったのである。ここに天下に二主あるの状態となり、以後いわゆる南北朝時代の争乱が続くのである(註三)。