二 武蔵野合戦

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 延元二(一三三七)年八月、陸奥の霊山城にいた北畠顕家は、義良親王を奉じて西上し、一二月利根川南岸の安保原に足利氏を打ち破った。そして児玉郡安保原薊山を迂回し、足利方として同地方にいた安保光泰の一党を討って南進し、入間川において新田義興の軍と合し鎌倉に迫った。足利方の斯波家長は防戦に失敗して自害し、鎌倉は顕家軍に占領された。このとき顕家軍に参じたものに武蔵の丹・児玉両党、下野の紀・清両党、上野の新田等がいる。顕家は鎌倉に数日滞在しただけで、翌延元三(一三三八)年正月鎌倉を出て西上し、遠江にて宗良親王と会し伊勢より大和に進んだが、五月和泉の堺浦・石津川原の合戦で討死した。
 延元三年は顕家の戦死、そして閏七月には南朝方の最高指揮官であった新田義貞が、越前の藤島で足利一門の斯波高経等と戦って討死するなど、南朝方にとっては不振の年であった。義貞の戦死は南朝方の坂東武士団に動揺を生じさせ、南朝方の小田・結城のように北朝方に寝がえるものもあらわれた。このように東国においても南朝方は次第に衰微し、北朝方の制覇は決定的になっていくのである。昭島市内に現存する板碑の年号をみると、南朝年号の板碑はなく、すべて北朝年号を使用している(註四)。また昭島周辺地域の板碑を概観してみても、ほとんどが北朝年号を使用している。つまりこの地域は当初から北朝の地盤であったことが知られる。

南北朝期の勢力分布図(1340年頃)

 その後、足利氏の内紛がおこり、尊氏と弟直義が不和となり、直義はしばしば尊氏にそむいて南朝に下った。関東においてこの内紛が激化したのは、正平六(一三五一)年京都を脱出し北陸にのがれていた直義が、一党を率いて直義派の上杉憲顕の待つ鎌倉へ向かったのを、尊氏が仁木頼章以下を率いて追撃し東下してきたことによる。尊氏の東下により、東国の武士は尊氏方に応じて次々と挙兵した。武蔵では津山氏や野与党が直義方の武蔵守護代を倒し、薬師寺中務や高麗経澄等も府中を攻め、そして橘樹郡小沢城をおとし入れた。このように次第に尊氏勢が直義勢を圧倒し、ついに尊氏は直義を駿河薩埵峠に攻め破った。そこで観応三(一三五二)年正月、尊氏優勢のうちに両者の和談がなった。しかし直義はその後二月末に、毒殺されたらしく急死し、ここに足利氏の内紛は一応の終結をみるに至った。
 この足利氏の内訌は、南朝にとってはその回復の絶好の好機であった。正平七(一三五二)年閏二月、この機をつかんで新田義貞の次男義興・三男義宗それに脇屋義治等は、宗良親王を奉じて上野・信濃・越後の一族軍を催して武蔵に攻め入った。新田方に参じたものに武蔵七党の児玉党の浅羽・四方田・庄・若児玉・勝代・中条の諸氏、丹党には中村・安保信濃守・同修理亮・同六郎左衛門・加治豊後守・同丹内左衛門・勅使河原丹七郎の諸氏、猪俣党には蓮沼・〓尻・十郎の諸氏、野与党の桜井・大田両氏、私市党の私市氏、西党の平山氏、その他村山・横山両党、熊谷氏等の武士がおり、一六日武蔵に入る頃には一〇万騎になったと伝えられている(註五)。一方足利方には江戸・豊島・河越・高坂・高麗・鬼窪・渋江等の諸氏が加わって一七日鎌倉を打って出、神奈川から南多摩郡の稲城村の谷口に進み、二〇日多摩川を渡って人見原・金井原の武蔵野原で新田勢と対戦し、ここに武蔵野合戦が開始された。この戦闘はその規模などからみても新田義貞の鎌倉攻めを上回る大合戦であり、武蔵の武士の大部分が両軍に分かれて戦っているのである。
 ところで、合戦は足利方の一部が新田方に内応したため、尊氏は苦戦に陥り石浜城(註六)まで退いた。この間に鎌倉は義興・義治に占領され、また義宗は笛吹峠の宗良親王勢と合流した。しかしその後、尊氏は陣容の立て直しに努め、関東東半の豪族である千葉・小山・小田・宇都宮・佐竹等が尊氏方に馳せ参じ、二五日には尊氏は軍を府中に集め、二八日南朝方の軍と小手指原に対陣した。合戦は午前中から夕刻まで攻防がくり返され、ついに南朝方は敗北し、信濃・越後方面に退陣した。味方の敗戦を聞いた義興・義治は鎌倉を脱出し、相模の河村城に立てこもり、次いで足利一門の畠山国清によって信濃に追いはらわれた。
 こうして関東は暫く平静を保った。尊氏の次男基氏は、直義の死後鎌倉にあって関東の静謐をはかり、ここに鎌倉管領府を成立させた。文和二(一三五三)年八月、基氏は鎌倉を出て入間川に在陣し、鎌倉方をねらわんとする反動勢力の鎮圧に努めた。延文三(一三五八)年四月、尊氏が世を去って義詮が将軍家を継ぐと、越後にひそんでいた義興は再び兵をあげ、一〇月武蔵に侵入した。しかし基氏・畠山国清に謀られ、多摩川の矢口の渡で誘殺された。ここに関東における南朝方の勢力はほぼ根絶し、武蔵武士たちは武家方(足利氏の麾下)として組織されてしまった。
 補註
 一 『梅松論』によると、直義は二二日出陣に当たって親王を殺したとしている。しかし『竺仙和尚語録』には、貞和三(一三四七)年七月二三日、直義が竺仙梵遷を請じて親王の一三回忌日の法要を営んでいるところからみて、親王の殺害は七月二三日であるとみてよかろう。
 二 ここで本文中の年号表記についてふれておきたい。本文中の年号は、北朝暦・南朝暦がないまぜになっており、統一の配慮を欠くかのように思われるが、原則として行動中心人物の側のそれに依拠した。この時代は、それぞれの陣営がそれぞれに年号を定めたというところに一つの特異性が存すると考えるからである。
 三 一時に両天皇のある変態的な現象は、南北朝のほかに寿永・元暦の間(一一八三~一一八五)平氏の西海に奉じた安徳天皇と京で後白河法皇の立てた後鳥羽天皇との例がある。しかし南北朝のように長く続いた例はほかにない。なお南北朝の史実と正閏論を簡明にまとめた書物として村田正志『南北朝論』(至文堂、昭34)がある。
 四 昭島市史編さん委員会編『昭島市史資料編 板碑と近世墓』四五~四七頁。
 五 『太平記』「新田起義兵事」の条。
 六 この石浜城については昔から論議の焦点となっているが、今日の台東区浅草の石浜附近であろうとみるのが妥当のようである。(『新編武蔵風土記稿』には浅草寺の北にある真土山、『江戸砂子』には浅草今戸、『御府内備考』には石浜神社が石浜城の城址であるという。この中でも真土山説が有力視されている。)しかし一説には石浜とは昭島北方の牛浜(福生市)の誤りであるともいわれているが、その確たる裏付けはない。