一 同族的武士団

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 武蔵国の各地には、平安末期から鎌倉・南北朝時代にかけて、在地武士たちの構成したいくつかの同族的武士団が活躍していた。これらの武士団を総称して武蔵七党といっているが、武蔵国以外にも党には紀州の湯浅党・隅田党、肥前の松浦党などがおり、族的団結をもって活動を行なっている。豊田武氏はこれらの各種の党をしらべた結果を通して、党の共通な性格として次の四点をあげられている(註一)。
 (一) 党が武士の族的結合の一つのあらわれである。
 (二) 比較的小地域を中心に結合している。
 (三) 党ははじめ同族を中心として形成されていたが、異姓が次第に加わり、南北朝期には一族一揆といった地域連合になっていく傾向があった。しかしその場合も、同族的な意識が党結合の基礎をなしていた。
 (四) 党の成員は比較的対等な関係に立ち、惣領がその党を代表する立場にあったが、惣領の統制力はそれほど強力ではなかった。
 つまり中世において「党」と呼ばれている武士団は、一般的にいって共和的な団結を維持している武士団をさすときに用いられるようである。武蔵七党のそれぞれについても同様な性格がみられる。
 武蔵国においては、一国一郡にまたがるような大武士団を構成するような豪族的武士は生まれなかったが、ただ党的武士団の結合がいくつか生まれ、相互に牽制しながらそれぞれの独立性を保っていたのである。その点では相模・甲斐・上総・下総の隣国の武士団の統合の歩みとは異なった武士団の発展がみられる。
 前節でふれた武蔵野合戦は、武蔵はもとより関東一帯のほとんどの武士が両軍に分かれて戦っている。このときの様子を記した『太平記』に、新田方に赤験(あかじるし)一揆・カタバミ・鷹羽(たかのは)・一文字・十五夜月弓一揆・鍬形一揆・母衣(ほろ)一揆、尊氏方に平一揆・白旗一揆・花一揆などといったように多くの一揆が加わり、それぞれ一団となって戦っている有様が窺える(註二)。この頃になると、武蔵における在地領主(国人)層の同族的血縁的結合形態は、次第に地縁的団結である国人一揆へと変貌してきたのである。戦乱に際して在地領主層は、一揆を結ぶことによって相互に分争して共倒れになるのを防いだのである。当初のこうした一時的な戦闘集団から、やがては在地領主層の恒常的な連合体へと発達していくのである。
 ところで、党的結合の分解現象はすでに鎌倉前期頃からみられる。和田合戦に際して、西党の中で平山氏だけが和田方に加わったといわれており、さらに村山党でも金子氏だけが和田方に加わっているのである。これはもはや党の結束が強固なものではなくなってきており、分解しかけていたことが窺えよう。それは当時各氏がそれぞれ一族ごとに分立し、かつ御家人として幕府統制下に入ったことによるが、さらには執権北条氏の直轄下に武蔵国がおかれたことが、諸氏の党的結合を弱める要因ともなっている。
 南北朝の内乱は、在地領主層にとって大きな試練の時期でもあった。その頃多摩郡において勢力をもっていた在地武士団をみると、昭島に隣接する立川に、西党の立河氏が根強い勢力を有しており、また北東方には村山党の山口氏が、入間郡山口郷を本拠地として多摩郡に相当の勢力を築いていたのである。そしてやがては、西方の多摩川と秋川の合流点附近の二宮に、木曾義仲の子孫といわれる大石氏が拠って武蔵目代・守護代として勢をもちはじめ、また西北方には平将門の子孫と称する三田氏が、勝沼城に拠って台頭してくるのである。このような状況下における立河氏・山口氏は、それぞれの勢力圏を守るために懸命な努力が払われたことであろう。そこで次に立河氏と山口氏の動静をみることにするが、しかし彼等の実態について今日不明な点も多く、今後の研究に期するところが多い。