二 西党立河氏

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 西党の後裔立河氏については、ほとんどその実態が定かではなかったが、『立川市史』(昭和四三年)の刊行により立河氏の動静がかなり明らかにされてきた。
 今日昭島に隣接する立川の柴崎町に、臨済宗建長寺派に属する玄武山普済寺がその大伽藍を擁している。当寺には六三枚の板碑(鎌倉後期から南北期に至るものが大部分)が現存している。これらの板碑は明治末年、当寺域内の立川宮内少輔宗恒の首塚と称されるところから出士したものであるといわれている。普済寺のこれらの板碑の出士によって、鎌倉後期頃から立河郷を領有し勢力をはっていた在地武士が、現在の普済寺附近に居住していたことが推測される。その在地武士が立河氏であって、これらの板碑は立河氏歴代の供養の板碑であったものと解される。そして南北朝時代には彼等は、代々北朝に加勢していたことが、それらの板碑の年号がすべて北朝の年号であることによって知られる。さらに彼等の信仰は、板碑の種子や銘文などからみて浄土宗に帰依していたようである。

普済寺(『江戸名所図絵』)

 ところで、立河氏の名が史上にあらわれるのは『吾妻鏡』(暦仁元年から寛元二年までの七年間)で、立河郷の在地武士と推定される立河三郎兵衛尉基泰なる人物が、幕府の御家人として記されている。次に『水府志料』所収の古文書によって、元徳三(一三三一)年頃立河郷に立河孫五郎入道生西と立河彦太郎重行なる人物が居住していることが知られる。南北朝頃になると、普済寺の草創(康永三年~文和二年)に関連して、立川宮内少輔宗恒が登場してくる。寺伝によると、普済寺は立川宗恒が開基となり、物外可什(?~一三六三)を建長寺より招いて開山としている。しかしこの宗恒の開基については疑問の点が多く、結局は開基については不明であるといわれている。ただ立河氏の誰かが普済寺の開基となったことはほぼ間違いないところであろう。立河氏は何等かの事情で宗旨を変更し、浄土宗から禅宗に帰依することになり、立河氏の居館内の一隅に臨済禅の普済寺を建立したものであろう。なお普済寺から出土した板碑のほとんどが阿弥陀仏の種子をもっていることから、立河氏の普済寺開創以前に浄土系の菩提寺が立河郷に存在していたとも考えられている。
 応永二四(一四一七)年には、立河駿河入道と立河雅楽助なる人物が、立河郷を領有していたことが『水府志料』所収の古文書によって知られ、当時としてはこの両人は相当に有力な人物であったらしい。しかしこれらの文書にみえる立河氏関係人名は、「武蔵七党系図」「西氏系図」などにはみられない。それ故たとえ年代的には合致しても、そこにはまだ問題点が残るようである。そしてこの頃には、立河氏は対岸の日野市附近と思われる土淵郷の地頭職もかねているのである。また上杉禅秀の乱(一四一六~一七)に際して、立河氏は関東公方足利持氏方に加わり功を立てている。その後、永享の乱(一四三八)における持氏の失脚により、立河氏も没落して立河郷や土淵郷の地頭職も失なったものと考えられる。立河氏に代わってやがて扇谷上杉に属していた平重能が勢力をのばし、第二次立河原合戦(一五〇四)の後立河郷を領有することになる。しかし天文一五(一五四六)年扇谷上杉が北条氏康に亡ぼされることによって、平氏は後退し再び立河氏が台頭してきたようである。そして立河氏はこの頃普済寺に城郭を構えたものと思われる。また当時、大石氏の養子である北条氏照が滝山城に入り、近隣を支配する時勢になっていた。そこで立河氏は氏照と結ぶことによって立河郷の所領を安堵したものであろう。

立河氏系図〔西氏系図『系図綜覧』所載〕(註三)

 天正一四(一五八六)年頃に、立河郷柴崎村に立河照重なる人物がいて、この地域を領有していたことが照重内女お禰々の奉納した八幡宮本地仏の背銘によって知られる。そしてやがて、天正一八(一五九〇)年氏照八王子落城とともに西党の名族立河氏一族は四散し、ここに事実上の滅亡をみるのである。なお滅亡後、立河氏の後裔が水戸藩士になっていることが確認されている(註四)。