普済寺は、一般的に立河氏の城館の址に建立されたものであるといわれている。しかし『江戸名所図絵』に引かれている普済寺の記録(享保六年、普済寺住職宗珍が編した記録)によると、普済寺が先で城館を後とする見方をとっている。『立川市史』には、普済寺建立が前で、立河氏の城館化は後に寺地を戦闘作戦上城塞化した結果であると考えた方が正鵠を得たものではないかと述べている(註三)。そしてその根拠の一つとして、昭島市中神に立河氏の城館址といわれるところがあることなどをあげている。それではこの中神の立河氏の城館址といわれる地はどこであろうか。『新編武蔵風土記稿』の中神村の福厳寺のところをみると、「土人の伝へに当院の境内は、天正以前立川宮内少輔が一族の居住せし跡なりといふ、」と記されており、福厳寺の寺地が立河氏の館址であったと伝えている。また当寺の「福厳寺境内及除地絵図」(明治五年)によると、かつて土塁が残存していたことが明らかであるが、しかし当寺地が立河氏の館址であったという確証は今日得られていない。なお昭島の郷地・福島・中神一帯は、立河氏の勢力圏であったことは充分推測される。福島に存する広福寺は、立河氏の菩提寺である普済寺の三世(一説に二世とある)直庵啓端を開山とし創建されている。また福厳寺も普済寺の末寺となっている。
福厳寺境内及除地絵図(福厳寺所蔵)
ところで、立河氏の城館址という普済寺の寺地は、多摩川に面する立川段丘の崖縁に位置している。この段丘台地は崖下からの比高約一二・五メートル(標高八五メートル)の険阻な断崖をなし、城館が営まれるには適当な位置である。従来この城館址は、現在の普済寺の寺域だけから成立した方形単郭式館であったと考えられてきた。しかし小室栄一氏によるとこの城館址は、「南方は台地急崖と土塁に依り、北東限は復元による土塁及び堀に依り、南東限は小形の堀切(総門淵)と土塁に依り、北西限は現在の土塁と復元堀切に依り外方から遮断されていたと推定されるのであり、更に、その囲郭内が、現在寺門の左右に連らなる土塁及びその想定延長土塁に依り、現在の寺域部分と現在寺域外の南東部分の二部分から形成されていたと思われる。そして、前者はこの館城の中核部であり、後者は外郭部であると見るのである。その根拠は、一般築城理論からすれば、中核部が周囲に比して、より低地に設けられることは有り得ないことである。(註四)」と述べられている。この城館は鎌倉末から近世初頭まで存立したが、初期のものは現在の寺地による平安末から鎌倉期にかけて、一般にみられる簡単な単郭式であったようである。しかしその最盛期になると、不規則な方形的複郭式館城となったと考えられている。
現在も館址と思わせるような遺構として、高さ二メートル弱の土塁が歴然として残されており、立河氏一族が、中世の武蔵野で生きぬいた時代の面影をしのぶことができよう。
立河氏館址の土塁(立川市普済寺)