一 建武新政とその失敗

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足利尊氏画像

 元弘三(一三三三)年、鎌倉幕府はついに滅んだ。五月七日、京都では足利高氏(後に尊氏)の率いる軍勢が六波羅の北条館を攻め落し、同二一日には新田義貞以下の大部隊が鎌倉に突入して、翌日北条高時以下一門が東勝寺に於て自殺するに及んで、ここに北条氏は滅び、鎌倉幕府は一四二年の命脈を閉じたのである。政権は再び天皇に帰し、後醍醐天皇は六月五日伯耆から京都に帰って、いよいよ自らの手で政治を行なうこととなった。建武の新政が始まったのである。
 後醍醐天皇は、権力主義者であると共に理想主義者でもあった。個人としての天皇は、この時代きっての高い教養と、深い学識を身につけた紳士であった。しかし、その教養の基本となっていたものは宋学--いわゆる朱子学の思想である。従って天皇が理想とした政治形態は、最盛期の宋のような皇帝を中心とした、中国式の専制政治であった。後醍醐天皇にとっては、建武新政は自分の政治の理想を実現する、願ってもないチャンスといえた。そこで天皇は「公家一統」のスローガンのもとに、かねてから抱いていた中国式の、天皇親政の専制政治の実行にとりかかったのである。
 しかしながら、政治における中国と日本との根本的な事情の相違に、後醍醐天皇は全く気がついていなかった。中国の皇帝は、高度に訓練された優れた官僚機構を最初から手足として持っていた。その頂点に立つことによって、はじめて専制政治が可能だったわけである。けれども一四世紀の、この動乱期の日本には、謀略家の貴族や戦争上手の武士たちはいても、専制政治を支える組織された有能な官僚群など、どこを探しても存在しなかったのである。
 このような背景を無視して、中国方式による天皇親政が強行されれば、その結果はどうなるか始めから判ったようなものであった。事務に不慣れの無能な公家が長官に坐った新政権の各機関は、ほとんどといってよい程その活動に支障を来した。殊に恩賞関係ではそれが甚だしかった。天皇は専政の権威を示すために、全国の武士に対して所領保障を改めて申請させ、恩賞はその上で新規に与えると命令したのであるが、これは地方武士たちにとって誠にむごい措置であった。武士たちはこれによって、大混乱と非常な時間的・経済的負担を強いられることになったのである。
 当時の武士社会の慣習として、二〇年間実際にその土地を支配していれば、書類上の不備があってもその土地についての領主権が認められることとなっていた。ところが新政権は証拠に基づくと称してこうした慣行を一旦全部否認してしまった。しかも恩賞は本領が保障されての上のことだという。このため証拠書類をたづさえて、本領の確保と恩賞の要求のため上京する武士が激増した。そうせざるを得なかったのである。薩摩のような、当時の日本のさいはてからまでやって来たのである。有名な「建武二年二条河原ノ落書」に、「本領ハナルル訴訟人 文書入レタル細葛(ほそつづら)」とあるのはその風景で、こうした武士の生活慣行を知らぬ行政が、いかに彼等を新政権から離れさせたか、計りしれないものがあった。
 さらに恩賞についても、その実施は甚だ不公平なものであった。天皇及びその関係の公卿たちが、没収した北条氏と与党の広大な所領の良いところをまづ分け取りし、一般の武士は二の次、三の次であった。しかも天皇の寵妃阿野廉子(あのれんし)を中心としたグループがしきりと口を入れ、〝内奏〟と称する超法規的な手段で、法的に一旦決着がついた事柄でさえもしばしば引繰り返らせたのである。これでは新政権の信用が地に落ちるのも無理はなかった。
 もともと武士たちが北条氏を見捨てて後醍醐天皇に味方したのは、同情でも正義でも政治理念に賛同したわけでも何でもない。北条氏の失政に対する不満が蓄積し、武士達は天皇に加勢することによって新たな恩賞を獲得し、生活の向上を期したからにほかならない。「一所懸命」という、このころつくられた言葉が示すように、彼等が欲しいのは何よりも所領であった。僅かながらでも所領を得ようという彼等の気持が、天皇の討幕計画とたまたま一致したというだけのことであった。従って武士たちは、恩賞としての所領が適正に配分されることを切実に望んでいたのである。
 ところが、反動的で時代の流れを無視した天皇親政と無能な恩賞方事務局、天皇・公卿・寵妃とその取巻等にばかり厚い不公平な行賞の実態は、武士達の期待をあまりにも裏切るものであった。彼等の失望・落胆・憤懣は親政が進むにつれますますつのって行った。
 今ノ如ニテ公家一統ノ天下ナラバ、諸国ノ地頭・御家人ハ皆奴婢・雑人ノ如ニテ有ベシ。哀何(アハレイカ)ナル不思議モ出来(イデキ)テ、武家執ル四海ノ権ヲ世ノ中ニ又成(ナレ)カシト思フ人ノミ多カリケリ。
という「太平記」巻一二の一節は、当時の中小武士たちの心境を巧みに描写したものということができよう。建武新政は、その中で最も大きな支柱となる筈の武士達の信頼を完全に失った。もはや崩壊するのは時間の問題といってよかったのである。