二 足利尊氏の武士工作

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 このような世情の中にあって、足利尊氏は新政権において表立った動きは一切やろうとしなかった。彼は建武新政において、天皇方の勲功第一とされ、天皇の諱を貰って高氏を尊氏と改名しておきながら、新政府の各種機関には全くといってよいほど名を連ねていない。そのため、京都市中では「尊氏なし」という言葉が流行したほどであった。
 足利尊氏はそれでは何をしていたのか。彼は、新政権のこのような混乱をよそに、独自に自分自身の地歩を固めるため、着々と手を打っていた。彼は先に六波羅を攻めて陥いれた時、そのままそこに奉行所を置いて、天皇方について戦乱に参加した武士たちの掌握に乗り出した。この奉行所は私的なものではあったが、鎌倉幕府以来足利氏は関東における源氏の嫡流と見倣されていたから、その奉行所も武士社会においては自ら権威あるものと認められることになったわけである。尊氏はここを本拠として、各国の武士たちの戦功報告について彼の名のもとに認証を与えてその信憑性を保証し(承了判)、恩賞の要求に有力な資料としてやった。これは同時に、尊氏の軍司令官としての地位を確保するものであった。
 先にも述べたように、尊氏自身は建武の新政権には殆んど関係していなかった。同じ関東の源氏の名家であり、共に鎌倉幕府打倒に活躍した新田義貞が、新政権の統合幕僚長ともいうべき「武者所頭人」という要職について、政府内において華々しく活躍しているのと比べると甚だ対照的である。しかし尊氏は、自分は動かなかったものの恩賞の審査や領地争いの裁決に当る雑訴決断所に上杉・高・飯尾・二階堂など、腹心の有力武将を送り込んで一般武士の信用をつなぎ、一方自分の子千寿王(義詮)、ついで弟の直義を鎌倉に派遣して、東国一帯の武士の掌握につとめたのであった。関東においては、同じ源氏の流れを引くといっても足利氏と新田氏ではその家格・地位に大きな隔りがあったから、鎌倉を攻め落したのは新田義貞でも、以後鎌倉を押えたのは結局足利尊氏だったのである。新田義貞が京都の中央政府で高い官職にのぼり、結果的に後醍醐天皇一派に深く肩入れすることとなったというのも、関東を中心とした武士たちを握ることに失敗したためであるとも考えられる。
 こうした具合に、足利尊氏は建武新政と同時に東国を中心とした武士たちの掌握工作に全力を費した。そしてその工作はほぼ成功したといってよい。
 尊氏のこのような裏面工作は、元弘三(一三三三)年五月に鎌倉幕府が滅んだあと、約半年の間に完了した。まづ彼は幕府討滅の恩賞として武蔵・相模・伊豆の三ヶ国を知行国として与えられ、ついでその一二月に、新しく設置された鎌倉将軍府に、皇子成良親王を奉じた弟直義を送り出すことに成功した。この将軍府は関東八ヶ国に伊豆・甲斐を加えた一〇ヶ国に対する司法・行政権を持った、いわば関東総督府ともいうべき強力な機関である。一方これと同時にこの将軍府の防衛機関である関東廂番も、吉良・一色・高・上杉といった足利氏に縁の深い有力な武将で固めてしまった。先にも述べたように雑訴決断所の審査官にも尊氏の息のかかった武将を送り込んであったから、これにより元弘三年が暮れるまでに、足利尊氏は武門の棟梁としての実質的な地歩を固めてしまっていた。南北朝動乱のきっかけとなったのはその翌々年、建武二(一三三五)年七月の北条時行による「中先代の乱」の突発であるが、尊氏の支配体制はそれまでの一年半あまりの間に、一層強固なものとなっていたのである。