三 室町(足利)幕府の開設

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 中先代の乱をきっかけに後醍醐天皇に叛旗をひるがえした足利尊氏は、数度の合戦に勝敗を重ねた末、建武三(一三三六)年六月になって一応の勝利を収めることができた。彼の要請によって持明院統の光明天皇が即位し、一一月二日京都において後醍醐天皇より神器譲渡が行なわれ、その朝廷が合法化されたのである。
 尊氏はこれを待ちかねていたようなところがある。神器譲渡から六日目の一一月七日に彼は「建武式目」を制定した。これは彼の政治諮問委員会の答申という形をとっているが、幕府を開くに当っての基本方針を定めたものであった。その第一条に、幕府の所在地即ち「柳営」を元のように鎌倉とすべきかどうか、という問題が提出されているのは興味深い。そしてその答として、政道の良否は場所の吉凶ではなく人の良否によるということがあげられているのはもっと面白い。幕府を京に置くか鎌倉に置くかということは、幕府自体の性格にかかわる根本的な大問題である筈だが、建武式目ではこれを最初から確定することを避けたのである。武家政権の後継者を以て自任する尊氏としては東国を重視している関係もあり、「武家の吉土」である鎌倉に本拠を構えたかったのであろうが、一応収まったとはいえ不安極まる当時の政治情勢はそれを許さなかった。そのため一応幕府の本拠は京に、出先機関として鎌倉府を設置するということで、妥協的にこの問題を片付けたのである。幕府成立の最初から見られたこのような曖昧さは、足利幕府の運営に最初から最後までつきまとったのであった。
 さて、建武式目を制定してから二〇日後、尊氏は参議から権大納言に進むと共に高師直を執事に補し、また太田時連を問注所の長官に補任して、ここに私的な政治機構をつくりあげた。足利幕府はこの時に始まったと一般に言われている。しかし、幕府の始まりは公式的には翌々年、建武五(暦応元・一三三八)年八月十一日に、尊氏が征夷大将軍になった時のことで、これにより尊氏は名実共に幕府の主となることができたわけである。
 尊氏・直義兄弟は、この頃はまだ二条高倉の邸に住んでいて、ここが幕府の所在地ともなっていた。少し後の話になるが、彼の孫の義満が室町北小路に「花の御所」とも呼ばれた豪華な新邸を建てたのが永和四(一三七八)年で、この邸の地名をとって始めて足利幕府が以後室町幕府と呼ばれるようになるのである。

旅の風景『石山縁起絵巻』より