室町幕府はこのように成立したが、これは決して日本国内が平和になったことを意味するものではない。それどころか京都を脱出して吉野に立籠った後醍醐天皇は京都の光明天皇及び尊氏の幕府に対抗して自らの正統性を主張し、徹底抗戦の態度をとった、いわゆる南朝である。南朝は京都こそ北朝に明渡したものの、なお陸奥鎮守府将軍北畠顕家はじめ各地に有力な軍団が残っており、各地の武士たちも時の状況に応じて南朝についたり北朝に加担したりして、全国的に南北朝の動乱が広まってゆくのである。殊に関東地方から東北にかけては、有力な大武士団が広い所領を押えて早くから土地事情が安定しており、従ってこの方面の武士が南北どちらにつくかということは時の政情を左右するだけの大きな力を持っていた。室町幕府の成立前後、関東では度々の戦乱が繰り返されている。とりわけ武蔵国は古来奥州と京都とを結ぶ交通の要衝に当っていたので、入間川から小手指原・府中附近には絶えず南北いづれかに味方する軍隊が往来し、またそれを邀撃する敵軍も進出して、頻繁に大小の戦闘が行なわれたようである。
まづ建武四(一三三七)年-南朝の年号では延元二年になるが-の一二月、八月から後醍醐の皇子義良親王を奉じて軍事行動を起していた南朝の陸奥鎮守府将軍北畠顕家は、各地で尊氏の支配下にある北朝方の軍勢を撃破しつつ利根川を渡り、入間川から小手指原、府中というルートを経て鎌倉に進撃したのであった。この軍団には下野の紀・清両党、上野の新田義興(義貞の子)と共に武蔵七党の丹・児玉両党が参加していたが、特に大きな合戦は行なわずに鎌倉に攻込むことができた。しかしこの時の軍勢は年が明けるとすぐ京へ上り、その五月和泉の堺浦で高師直の率いる北朝軍と戦って大敗北を喫し、四散してしまったので、関東自体としては大きな騒動にならずにすんだようである。
関東の武士たちの間に大きな混乱が生じたのは、むしろその翌年、暦応元(一三三八)年のことであった。閏七月、南朝方の最高指揮官であった新田義貞が、越前藤島の戦いで無鉄砲にも自分で最前線へ飛出し、流れ矢に当って落命するという、実に詰らない戦死をとげてしまったのである。南朝方にとって、義貞は武将としての家格や実力で足利尊氏に対抗できる唯一の持駒であっただけに、この打撃は深刻であった。とくに戦略的な見地から南朝方についていた坂東武士団の間に大動揺が起った。その結果、常陸の小田や結城一族のように南朝から北朝に寝返る者も多く出たのである。しかし武蔵国の武士たち--その中心をなす武蔵七党の武士たちは、先に丹・児玉党が北畠顕家の軍に参加したという例はあるものの、大半は最初から武家方、すなわち北朝に味方していたようである。たとえば現在の立川市から昭島市・武蔵大和市・府中市一帯は武蔵七党の村山党の勢力範囲であるが、この地域に残された当時の板碑は、ほとんどすべて北朝年号を使用している。これから見ると、この附近は早くから余程強固な北朝方の地盤であったということができよう。
新田義貞の戦死により、関東一帯は北朝すなわち武家方が優勢のまま、しばらく小康状態が続いた。しかしそれも一〇年ほどの間にすぎず、一三五〇年になると時の年号をとって「観応の擾乱」と呼ばれる尊氏・直義兄弟の内訌が始ったのであった。
この擾乱のはじまりは、その前年(貞和五年)足利直義と尊氏の腹心高師直との不和から起った。それが次第にエスカレートして師直=直義の争いが間もなく尊氏=直義・直冬(直義の養子)の争いとなり、足利氏兄弟の内紛となって激化したのである。すなわち宮方(南朝)・武家方(北朝)に二分されていた天下は武家方が尊氏派と直義派に分裂したため三ツ巴となり、複雑な戦略によって三者が互に連合したり敵対したりすることとなった。武家方が大勢を占めていた関東の武士たちも例外ではなく、尊氏方と直義方の二派に分れて互に戦を挑むようになったのである。