五 観応の擾乱と東国武士

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 小康状態が保たれていた関東において政情が不穏になってきたのは、観応二(一三五一)年一一月、足利直義がその一党と共に北陸地方から逃れて鎌倉に入り、これを追って同じ月、尊氏が東海道を進撃して来たことによる。しかし直義は元弘三年以来一八年にわたり鎌倉に本拠を構え、関東を中心とする武士団の統制に苦心してきたので、この恩顧に感じて直義に味方する武士たちの方が、最初は圧倒的に多かった。尊氏もこのことはよく判っていたから、
 (前略)将軍ヘハハカバカシキ勢モ不参。角テ無ク左右鎌倉ヘ寄ン事難シ叶ヒ先且(マヅシバラク)要害ニ陣ヲ取テコソ勢モ催(モヨホ)サメトテ、十一月晦日(ツゴモリ)駿河ノ薩埵山ニ打上リ、東北ニ陣ヲ張給フ。(太平記巻三〇)
 という戦法をとって、持久戦に入ったのであった。この最初の軍勢の中に下総の有力者千葉氏や、武田・畠山・二階堂といった関東武士の顔振れが見られるのは注目してよいことであろう。尊氏はさらにここで、兼てからの打合せ通り、下野の有力武士団である宇都宮一族の参加を得て、これを手始めに関東の武士団を除々に味方に引込もうという作戦であった。
 千葉や宇都宮を味方につけ、これを手がかりに直義方の関東武士たちを切崩そうという尊氏のねらいは成功したようである。宇都宮一族と共に、下野の氏家党や紀党、武蔵七党のうちの丹党・猪俣党・野与党の武士たちが次々と尊氏について、戦局は彼にとって急速に有利になって来た。関東の戦闘自体は上野の那和(現伊勢崎市内)や薩埵附近で数回くり返されたにすぎず、勝負そのものも五分五分といってよい程の局地戦ではあったが、戦略的にはこの時間稼ぎの間に尊氏方の軍勢は次第に参加者を増し、直義方を圧倒するようになる。武蔵七党のうちでも児玉党は遂に最後まで直義方という姿勢を変えなかったが、他の武士たちは動揺する者が多くなった。一二月も押し迫ってから、宇都宮と並んで下野の有力武士であった小山一族が尊氏方に参加した。これが決定打であった。太平記が誇張して五十万騎と書いた程の直義軍の主力は、攻撃のチャンスを失していたづらに薩埵峠の麓に陣を張っているうち小山一族に背後を衝かれ、防戦の隙も見出せずに敗れ去った。観応三(一三五二)月正月、尊氏優勢のうちに兄弟の和睦が成り、足利家の内紛は一応収まって、彼等は共に鎌倉に入ったが、直義は二月二六日突然死去した。四五歳であった。死因は黄疽と発表されたが、当時から毒殺されたのだという説が強かった。恐らくそれが本当であろう。
 足利直義の死によって、関東東国の武士団は一応尊氏の勢力下に入り、関東も兵乱が収まった。これを当時の年号にちなんで「観応の擾乱」という。しかし、これは表面的なことにすぎなかった。足利氏の内訌は武家方の統制力を弱め、反撃の機会をうかがっていた南朝方、すなわち宮方にとって絶好の機会を提供したのである。