観応の擾乱を利用して、宮方の反攻の口火を切ったのは、建武四年の鎌倉攻め以来十五年間雌伏を続けていた上野の新田義貞の次男、新田義興であった。彼は弟の義宗や従弟の脇屋義治と計って、足利直義死去直後の閏二月八日、本拠地の上野・越後の手兵を集め、西上野へ打って出た。同時に信濃において宮方のため工作を続けていた後醍醐天皇の皇子宗良親王も、相呼応して笛吹峠(埼玉県比企郡)まで進出したのである。旗上げ直後の新田勢は数百騎にすぎなかったが、武蔵・相模の武士たちのうち、足利直義に服従していた連中が今度は味方についた。そうした反尊氏勢力の参加で、一六日武蔵国に入った新田勢は、太平記が一〇万と形容するくらいの大軍になっていたのであった。
新田義興がこのように急速に味方を集められたということは、この頃の関東の武士たちの心理の反映にほかならない。彼等にとっては天皇などは京都に居ようと吉野で抵抗しようと一向に関係のないことであった。宮方につこうと武家方に加担しようと、どちらが天下をとっても東国の果の大多数の武士は少しもかまわなかった。彼等の望むところは自分達の所領の安定であり、またさまざまな働きの恩賞としてそれを少しでも増やしてくれる親分であった。その点足利直義は関東とも関係が深く、頼り甲斐のある人物であったが、彼が殺されてしまうと直義と好かった関東武土たちは当然尊氏の下では良い目が見られなくなる。かなり大勢が「哀(アハレ)謀反ヲ起ス人ノアレカシ、与力セン」(太平記)といった物騒な心境になっていたようである。新田義興の手兵が急速に大軍にまで成長したのは、このような事情からである。参加者の中には一旦は直義を見放して尊氏の下につきながら、再び反尊氏に回った宇都宮一族・丹党・猪俣党といった連中もいる。こうした武士たちの行動は、近世の儒教的思想に基く武士道でははかれない。彼等はいわゆる「忠」の概念からはみ出してしまっている。どんな場合でも所領を保持し、拡大すること。これこそ彼等にとっての至上目的であった。少しでも有利な方を素早く見分けて転身する、その徹底したエゴイズムこそ彼等の正義なのであった。これが、前期封建社会の一つの特質でもあったのである。数百の手兵で進撃を開始した新田勢の急成長の裏には、こうした関東武士たちの心理と関東をまだ押え切っていない尊氏への不信と不満が働いていたわけである。加わった武士たちの中には、先にあげたように宇都宮・丹などがいた。それに村山・横山・猪俣といった、先の観応の擾乱には尊氏方に加わった武蔵七党の武士も参加した。逆に児玉党など、先には結束して直義方についていた武士のある者は、今度は党内が分裂して義興と尊氏とに分れて加勢することになったのである。新田軍は二隊となり、一隊は鎌倉を指して直行し、もう一隊は一七日、武蔵の中心部を押えるため府中に進んだのであった。
足利尊氏は、この報告を鎌倉で聞いた。鎌倉には僅かの護衛兵しか残されていない。彼は防衛の不利を考え、一六日早朝鎌倉を捨てて武蔵国狩野川(神奈川)へ退却した。ここで陣容を建て直しているうち、上野国緑野郡(現群馬県藤岡市附近)・相模国高座郡・武蔵国入間及豊島両郡などの武士が味方に集まってきたので、ほぼ新田軍に伯仲する軍勢となった。そこで尊氏は狩野川から進んで一九日谷口(東京都稲城市)に達し多摩川を渡った。一方鎌倉を目がけた新田義宗等は一八日鎌倉に攻込んでこれを占領したが、尊氏はすでに退却したあとだったので、これを追って一九日再び引返したのであった。
かくて足利・新田両軍の決戦は、翌二月二〇日、現在の東京都府中市附近に当る人見原、小金井市に当る金井原を中心とした武蔵野原野で繰り拡げられた。戦闘は早朝から終日にわたり、一時は足利方の旗色が悪く、尊氏も金井原から追われて石浜(東京都台東区)まで退く始末であった。しかし新田方もこの追撃戦で兵力を消耗しつくし、結局夕刻になって陣形をたて直して反撃して来た足利軍を支えることができず敗走した。新田義興・脇屋義治等は鎌倉に引き返し、新田義宗は逃れて笛吹峠の宗良親王軍に合流したのであった。この戦はその舞台の広さといい、関東武士、とくに武蔵七党の武士たちが仲間割れしてまで双方についたという深刻な点といい、前には見られぬ戦争であったといえるであろう。元弘三(一三三三)年五月の分倍河原の戦(新田義貞)よりも、戦の規模としてはずっと大きいものだったのである。
この勝に乗じた足利尊氏は直ちに兵力をまとめた。二五日には大軍を府中に集結させてまづ笛吹峠と鎌倉の間の新田軍の連絡を絶ち、さらに甲斐源氏一族の参加を得て、笛吹峠の宮方の軍勢に対して進撃を開始した。宗良親王を総指揮官とする宮方もこれに対抗して峠を下った。閏二月二八日、両軍は武蔵国入間郡小手指原(現埼玉県所沢市附近)において出会い、大会戦となったのである。宮方は新田義宗・越後の上杉憲顕以下信濃・上野・越後に武蔵武士の大半で二万余、武家方は相模・甲斐を主力に武蔵武士の一部が加わり、これを上廻る大軍だったといわれている。
宮方の総指揮官宗良親王は、父の後醍醐天皇に似て向意気の強い人であったらしい。「新葉和歌集」には親王の詠として
君がため世のため何かをしからん
すててかひある命なりせば
という至極勇ましいだけの歌が載っているが、これはこの戦に際しての詠であるという。
小手指原の合戦は、午前一一時頃から夕刻にまで及んだ。両軍とも新手を互いに繰り出して休む折もない戦いで、最初のうちは勝敗の帰趨もはっきりしなかった。しかし地元民のうちで足利側に通じる者があり、その手引でそれまで後方にいて勢力を温存していた仁木頼章の兵が、新田軍の側面から攻撃をかけた。最初から寡兵の宮方はこのために動揺して崩れ出し、日没休戦となると同時に戦線をまとめ、指揮官以下信濃と越後に向って総退却の状態となった。この退即により、それまで新田と上杉に従っていた上野と武蔵の武士たちは指揮官に見捨てられて逃場を失ない、相ついで武家方に降参したのである。また先の武蔵野合戦以来表面的には中立を維持し、合戦の結果を見守っていた上総・下総の武士たちも洞ヶ峠を降りて尊氏の幕下に参加したので、武家方はたちまち非常な大軍となった。
小手指原の戦には参加せず、鎌倉に拠って防衛に専念していた新田義興と脇屋義治は、敗戦の報に続く武士たちの帰属の状況を知って防戦不可能を覚り、三月四日鎌倉を脱出して相模川づたいに甲斐から信濃へと脱れ去った。尊氏は再び鎌倉を無血占領により取返し、遂に関東全域を完全に制圧して、その武士たちを彼の威令の下に服させることに成功したのである。
小手指原の合戦における敗北は、宮方-南朝方にとって決定的な打撃であった。関東から追われた宮方の勢力はもはや二度とこのように大きな軍事行動を起すだけの力を失い、尊氏-そして鎌倉府を中心とした幕府の関東経営は次第に着実な成果をあげるようになった。小範囲な宮方の武力抵抗はその後も時々起った。延文三(一三五八)年一〇月、信濃に逃れていた新田義興がひそかに武蔵に潜入、挙兵しようとして関東公方足利基氏(尊氏の息)のために武蔵国矢口渡で誘殺された事件や、貞治六(一三六七)年二月武蔵武士の山口氏と河越氏が起した宮方一揆などがそれである。しかし時の流れを変えることはできず、此等も天下の大勢に影響のないごく小規模な武力行使に終ってたちまち鎮圧されてしまった。尤も、此等が必ずしも純粋の宮方(南朝方)の挙兵と当い切れないところに、この頃の関東の複雑さがある。いずれにせよ、文和元(一三五二)年以降の関東の政情は鎌倉府、大豪族、そして一揆という形に団結した群小武士たちの三すくみという姿で、足利幕府の天下となった。宮方は関東において手も足も出せなくなり、暦応元(一三三八)年幕府開設以来一四年を経て、関東にも漸く平和が訪れはじめたのである。