足利尊氏が幕府を開くに当って第一にその所在地をどこにするかを問題とした(建武式目第一条)ことは、前節で述べたとおりである。尊氏個人の気持からいえば、彼は鎌倉こそ「武家の吉土」だと考えていた。だから源氏の長者として頼朝以来の伝統を受継ぐつもりの尊氏にとっては、鎌倉の方が京都よりはるかに幕府の所在地として望ましかった。もともと足利氏の本拠は下野国足利荘であるし、武家政権において坂東武士が占める軍事的重要性からいっても、鎌倉はその押えとなるとくに大切な軍事拠点といえた。しかし全国的な戦略上の見地からは、幕府はやはり京都に置かざるを得ない。そこで関東経営のために鎌倉には強力な権限を持った軍事行政機構を置き、幕府の東国への要石(かなめいし)とすることが考えられた。このような目的で設けられたのが一般に「鎌倉府」とか「関東府」とか呼ばれる機関であった。その代表となる足利一族の者を「関東公方」、それを補佐する執事のことを京都のそれにならって「関東管領」と呼んでいる。つまり鎌倉府は、幕府内における関東の小幕府のようなものであった。
鎌倉府という構想は、足利幕府と共に生れてきたわけではない。既に鎌倉幕府が滅んだ元弘三(一三三三)年の一二月には、新政権の手によって関東一〇ヶ国を管轄する「鎌倉将軍府」が設置され、皇子成良親王を奉じて足利直義が乗り込んで来ている。これは関東に限って旧幕府の軍事・行政組織をそのまま利用し、小幕府を復活させたようなもので、その権限はまだ小さなものだったとはいえ、鎌倉府の先駆をなす機関であったと思われる。鎌倉府はこの鎌倉将軍府を、いわば発展的に足利幕府の機構の中に組込んだものということができる。