観応の擾乱で直義が死に、それに続く新田義興の乱も鎮圧されると尊氏は京都に上ってしまい、関東の情勢も漸く静けさを取戻した。もう直義もおらず、基氏の頭を押える者はいない。鎌倉府はここにようやく、関東公方を頂点とする組織を確立し、その権力を完全に掌握することができるようになったのである。
鎌倉府に与えられた権限はきわめて大きなもので、その統轄する地域、すなわち武蔵・相模・上野・下野・常陸・上総・下総・安房の関東八か国に伊豆・甲斐を加えた一〇ヶ国について、管領及び守護の任免以外の司法・警察権、租税賦課権、土地処分権、軍事統率権など、行政上・軍事上の諸権限のほとんどにわたり幕府から白紙委任されたのであった。従って、鎌倉府自身の組織もまた幕府のそれとよく似ており、将軍に政務上・軍事上補佐役として管領があり、行政機構として各種の役所が設けられていたように、鎌倉府も関東公方を助ける関東管領(初期には関東執事)があって、以下評定衆・引付衆・問注所・政所・侍所など幕府と同じように設けられたのである。こうなると鎌倉府は幕府の一下部機構というより、さながら別個の小幕府が関東の地に出現したようなもので、鎌倉府の独立性はきわめて強いものであった。
幕府のしくみ
室町時代を通じて設けられた幕府の職制のあらまし。これらは制度として一時に完備したものではない。