二 鎌倉府の確立と組織

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 中先代の乱をきっかけとして自らも叛乱の旗上げをした足利尊氏は、建武二(一三三五)年の末、六歳になる次男の義詮を鎌倉に残して京都めざして進撃していった。鎌倉府のはじまりは、一応この時からと考えることができる。しかしその機構も権限は、後に見られるような強大なものでは勿論なかった。それに足利直義もまだ健在で、東国の安定についてはかえって義詮よりも叔父の直義の声望によるところが大きかったようである。義詮を補佐するために暦応三(一三四〇)年、上杉憲顕・高師冬の二人が関東執事に任命されたが、東国経営における義詮のウエイトが小さかったこともあって、この地位もまだ安定した強力なものとはいえなかった。やがて貞和五(一三四九)年秋になって、二〇歳になった義詮が京都へ上ってしまうと、その弟の一〇歳になる足利基氏が京から赴任してきて鎌倉府の長官、すなわち関東公方に正式に収まった。制度的には、鎌倉府はこの時から始ったのである。関東執事も交替して、上杉・高といった足利一族に近いものにかわり、伊豆の畠山国清が就任したのであった。
 観応の擾乱で直義が死に、それに続く新田義興の乱も鎮圧されると尊氏は京都に上ってしまい、関東の情勢も漸く静けさを取戻した。もう直義もおらず、基氏の頭を押える者はいない。鎌倉府はここにようやく、関東公方を頂点とする組織を確立し、その権力を完全に掌握することができるようになったのである。
 鎌倉府に与えられた権限はきわめて大きなもので、その統轄する地域、すなわち武蔵・相模・上野・下野・常陸・上総・下総・安房の関東八か国に伊豆・甲斐を加えた一〇ヶ国について、管領及び守護の任免以外の司法・警察権、租税賦課権、土地処分権、軍事統率権など、行政上・軍事上の諸権限のほとんどにわたり幕府から白紙委任されたのであった。従って、鎌倉府自身の組織もまた幕府のそれとよく似ており、将軍に政務上・軍事上補佐役として管領があり、行政機構として各種の役所が設けられていたように、鎌倉府も関東公方を助ける関東管領(初期には関東執事)があって、以下評定衆・引付衆・問注所・政所・侍所など幕府と同じように設けられたのである。こうなると鎌倉府は幕府の一下部機構というより、さながら別個の小幕府が関東の地に出現したようなもので、鎌倉府の独立性はきわめて強いものであった。

幕府のしくみ
室町時代を通じて設けられた幕府の職制のあらまし。これらは制度として一時に完備したものではない。