三 鎌倉府の必要性

544 ~ 546 / 1551ページ
 貞治六(一三六七)年初代の関東公方基氏が死去すると、その子氏満がそのあとを継いで、ここに関東公方の世襲制が確定した。一方、関東管領(執事)の役職も、康安元(一三六一)年後述するような事情から畠山国清が群小武士団と対立して没落したあと、上杉憲顕が懇請されて貞治二(一三六三)年に就任しており、これも上杉一族の代々継承するところとなった。そして明徳三(一三九二)年には、従来の一〇ヶ国に加えてさらに陸奥・出羽の二国が鎌倉府の管轄地に編入されたので、ついに東日本の殆んどが鎌倉府の支配に入ることとなったのである。
 何故関東にだけ、このような独立性の強い強大な行政機構が必要だったのだろうか。その理由はいくつか考えられるが、最も大きなものとしていえるのは、関東地方は戦乱が度々繰返されたにもかかわらず、小田・佐竹・千葉・新田(これは没落したが)・宇都宮その他、鎌倉時代以来生え抜きの大豪族の武士が沢山いたということであろう。彼等は何重もの血縁関係によって固く結びつき、大規模な同族集団を形成していた。この集団はそれぞれガッチリまとまって互いにバランスを保ちつつ、広大な土地に君臨していたのである。
 畿内や西海道の諸国においては、権力関係が複雑な上、関東のように飛抜けて大きく、且つ安定している武士団というのはあまり見られなかった。そこで足利幕府は、そうした諸国にはまず吉良・細川・斯波・仁木・今川といった足利一族を守護に任命し、任地では現地の小豪族を積極的に家臣に登用することによって新規に大きな武士団を形成して、豪族間の力のバランスの中に介入することによって国内を統御するという政策をとって来た。しかし、内乱期にもかかわらず同族の結合が固く、豪族間の関係が安定していて、守護職をはじめとする勢力配分がはっきりしている東国では、彼等豪族たちの共通の利害にさからい、その意向を無視して足利一族の守護を割込ませるような、正面切った敵対行動をとることはできない。仮にそれができたとしても、守護が豪族たちの意向と無関係に、勝手に家臣団を編成するような真似はまづ絶対に不可能であった。そこで幕府としては豪族たちに対抗し、武家の統領としての地位を保持してゆくために、関東の豪族集団からはみ出した群小武士を味方につける必要があった。この群小武士の集団を「一揆」という。一揆については別項でまた述べたいが、彼等を結集させ、大豪族たちに対抗させるよう操縦してゆこうとすれば、一般の守護の権能よりもっと大きな、数ヶ国にわたる調整機能を備えた強力な司令部がなくてはならなかった。ここに独自性の強い、強大な権限を持った鎌倉府が設置される理由があった。
 このような事情によって生れただけに、鎌倉府の東国経営の治績があがってくると、その勢力は京都の幕府にもあまりひけを取らぬくらい大きなものになってくる。大豪族を押えて関東を幕府のもとに統一するためには鎌倉府に強大な権限が与えられねばならなかったが、これはまた鎌倉府自体を強大なものに成長させることでもあった。それは京・鎌倉間がうまくいっている間は別にかまわないが、一旦両者が不和になった場合、逆作用に働いて対立をより深刻化させる原因ともなった。もちろん、広大な地域を管轄し大きな権限を持つ鎌倉府は、京都と密接な関係を保ち続けることが初代公方基氏以来の一貫した基本方針であり、最初のうちは両者の協力も充分あってその関係は良好であった。ところが次節で述べるように基氏から氏満・満兼と代を重ねるにつれてこの基本方針は無視されて京都と鎌倉の間に隔たりが生じ、次第に険悪な関係となって不和が深刻化するに至った。結局幕府は、自ら播いた種により自分が育てた鎌倉府との対立抗争に陥るというジレンマに直面しなければならなくなったのである。