四 国人一揆

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 幕府が、鎌倉府において関東統治の道具の一つとして使ったのが、先にも述べた東国特有の「一揆」である。一揆とは「揆(はかりごと)を一にする」、つまり団結するという意味であるが、ここにいう一揆はよく知られている土一揆や一向一揆、百姓一揆といった類とはその性質を異にしている。この場合の一揆は「地方の群小武士の集団」とするのが最も適当な訳語であろう。
 地方武士の集りである此等の一揆は、また「国一揆(くにいっき)」とも呼ばれた。「国人」の「一揆」という意味である。(国人と一揆とは別な階層に属するという説もあるが、ここでは永原慶二氏の説に従って同一と考えておく)国人とはその国生え抜きの、開拓者たちの子孫である武士たちのことである。彼等のうちの或る者は次第に勢力を伸長して一族を増やし、広い土地を囲い込んで大豪族へと発展の途をたどるが、それ程有力でなかったり、政治的な見通しを誤って所領の大半を失ったりした者たちはそうした発展から取残され、力の格差が生じると共に大豪族たちから絶えず侵略され、圧迫されて、ややもすれば彼等の家臣のような位置に甘んじねばならない場合さえ生れていた。
 そこで、大豪族の従者的な位置から脱出し、自分達の権益を確保しようとして此等弱小地方武士たちが結成した集団が国一揆である。つまり主従関係のような縦に結ばれた関係ではなく、個々の武士たちが連合した横の自衛組織で、彼等は「一揆契状」という盟約を取り交わして、戦争の時は勿論、平時においても相互協力を怠らなかったのである。
 一揆と一口にいっても、その大きさは勿論一様ではなく、小は数人から大は数百ぐらいまで、その規模は実にさまざまであったらしい。初期の一揆はどちらかというと血縁集団的な傾向が強く、藤家一揆とか平一揆、白旗一揆といった同族的な名称を名乗ったものが多い。「源威集」下に、
 平一揆ニハ高坂・江戸・古屋・土肥・土屋、白旗一揆ハ児玉・猪役(股)・村(山)ノ輩を分進ル」(文和四〔一三五五〕年二月京軍の記事)
とあるところから見てもわかるように、武蔵七党など鎌倉時代に活躍しながら大豪族に成長できなかった武士たちは、一四世紀中葉ごろになるとばらばらに分散して、それぞれの持つ条件に応じいくつもの一揆を結成したと考えられる。昭島のあたり一帯は村山党、或は西党日奉(ひまつり)氏の勢力範囲となっていたから、このあたりの武士たちは分かれて一部は白旗一揆などに参加したものであろう。
 なお、時代が降るにつれて一揆は名称も、その構成分子も変化する。藤家一揆・白旗一揆・平一揆などと呼ばれ、どちらかといえば血縁的な同族連合体に近かった初期の一揆は、やがてもっと合理的な連合方式へと進みはじめた。永原慶二氏の作図にも見られるように、血縁・非血縁を問わず国人同志が地域的にまとまりだした。

 

 そして一五世紀初頭、後述する上杉禅秀の乱(応永二三〔一四一六〕年)が終った頃には、国一揆は上州一揆・武州南一揆・入西(入間郡西部か)一揆・上総本一揆などと呼名も変わり、名称に示すような地域的連合体に変化していたようである。
 このようにして生れた一揆は互いに独自の行動をとり、制約を受けなかった。鎌倉府の懐柔策によって彼等の中では関東公方につく者が多かったが、必ずしも鎌倉府に全面的に掌握されていたわけではない。その状況に応じ或は幕府につき、或は他の大豪族に味方し、或は幕府に反抗する新田一族の部将になるなど、甚だ流動的なところがあった。
 一揆は「はかりごと」ばかりでなく、戦場に臨むに当っては旗印などを揃えて団結していたようである。太平記巻三一の小手指原合戦の段は一揆の服装などについて美辞を連ねて描写しているが、それによると、
 先陣ハ平一揆三万余騎、小手ノ袋・四幅袴・笠符ニ至ルマデ一色ニ皆赤カリケレバ、殊更輝(カガヤ)イテゾ見ヘタリケル。二陣ニハ白旗一揆二万余騎、白葦毛・白瓦毛・白佐馬・鵯毛ナヲ馬ニ乗テ、練貫(ネリヌキ)ノ笠符ニ白旌ヲ差タリケルガ……三陣ニハ花一揆、命鶴ヲ大将トシテ六千余騎、萌黄(モヨギ)・火威(ヒオドシ)・紫絲・卯ノ花ノ妻取(ツマドツ)タル鎧ニ薄紅ノ笠符ヲツケ、梅花一枝折テ甲(カブト)ノ真甲ニ差タレバ、四方ノ嵐ノ吹度ニ鎧ノ袖ヤ匂フラン。
といった具合であった。
 花一揆といった一揆が実在したかどうかという点にはいささか疑問の余地があり、またこの数字も文学的な誇張に満ちてはいるが、とにかく一揆として結ばれた者は、何等かの共通のシンボルマークをつけて、その団結を示していたことがうかがわれる。しかしながら実際に、関東の田舎武士たちにこのように洗練された、金のかかった戦支度が揃えられたかどうかは疑わしい。精々旗か笠印を揃えていた程度ではなかろうか。