五 畠山国清の失脚と一揆

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 一揆は以上述べて来たように、その個々の動きはきわめて流動的で、またそれぞれの事情に応じて連合したり対立したりしていた。しかしながら一見ばらばらのようでいても、彼等群小武士団全体に共通する利害にかかわることになると、この連中はたちまち団結して、その勢いは恐るべきものとなる。先にも一寸ふれた康安元(一三六一)年の畠山国清の没落は、その好例といってよいであろう。
 畠山国清は足利基氏の関東公方着任と共に関東執事となり、以来一〇年にわたって鎌倉府における事務長の役割を果してきた。当初、基氏は一〇歳の幼童にすぎず、政務上の重要決定はすべて国清の手に任されていたから、基氏を擁した国清の権勢は大変なものであった。
 ところが延文四(一三五九)年の冬、国清は将軍義詮に呼ばれ、基氏の許可を得て南朝討伐のために大軍をひきいて上洛した。この時国清はその勢威にまかせ、関東八ヶ国の方々から武士たちを大動員したもののようである。しかし彼は京都において仁木義長と争いを起し、そのすきを突かれて南朝方に反攻の機会を与えるなどその軍事行動は失敗続きで、翌年八月にほうほうの態で鎌倉に帰って来たのであった。
 もともと畠山国清が上洛した時は、この討伐を比較的短期間で完了するつもりであったらしい。ところが在陣が意外に長引いて八ヶ月余にも及んだため、関東から出征した武士たちは滞在費用も尽きて食うに困ったあげく、馬や武具まで手離さなくてはならない始末になった。これでは戦どころではない。武士たちの大部分はこらえかねて、国清の許しを受けず三々伍々本国へ逃げ帰ってしまった。ところが、畠山国清は自分も逃げるようにして関東へ帰って来たくせに、戻るやいなや先に逃げ帰っていた武士たちの所領を片っ端から没収しはじめた。彼等が嘆こうが訴えようが全く聞きいれず、たまたまこの問題を取上げようとする奉行があると逆に叱りつける有様だった。すでに京から逃げ帰った時に国清に対して反感を抱いていた武士たちは、共通の被害者としての立場において団結した。そして千余人の連名で、これ以上国清を関東管領でおくなら、今後一切幕府、直接には鎌倉府の指揮命令には従わないという旨を、基氏に訴え出たのである。
 訴えを受けた基氏はこの時すでに二二歳になっていた。しかも国清は妻の兄に当っている。彼としては義兄の方を信頼したかったろうし、またこうした脅迫めいた強訴に対しては、統制を乱すものとして内心大いに憤慨したらしい。しかし当時の情勢下においては、
 此者ドモニ背レナバ、東国ハ一日モ無為ナルマジ(太平記)
と考えられたので、止むなく圧力に屈して国清を問責するより仕方なかった。そこで国清は鎌倉を出奔し、伊豆に立籠って叛乱を起したのである。ところが群小武士団をいぢめすぎたお陰で、旗挙げをしても彼の許に参加する武士は全くなく、国清は完全に没落してしまったのであった。
 畠山国清をボイコットした武士はどんな連中であったかは判っていない。しかし、たとえ当時飛ぶ鳥を落す勢の執事であったとはいえ、国清に簡単に所領を召し上げられるくらいであるから、一人一人はどうせ大した武士ではなかったであろう。今、太平記を中心に畠山国清失脚の経緯を述べたのであるが、文学的な誇張はあるにしても、この事件は、関東では群小武士の団結した力は、すでに無視できぬほど大きな影響を持ったものに成長していること、たとえ執事であり、豪族たちと密接な関係にあっても、群小武士団から不信任されれば没落せざるを得ない情勢になっていたことをよく示している。鎌倉府は此等群小武士団と、在来の大豪族たちとの力の微妙なバランスを巧みにとりながら、東国を経営していたのである。