六 一揆の統御と関東管領

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 この叛乱の翌貞治元(一三六二)年、基氏軍の主力となって修善寺城に籠る国清軍を降伏させたのは藤一旗・平一旗などの国一揆であった。平一揆は南武蔵の河越・豊島・江戸など平氏系の国人が結成したものであったから、昭島附近の武士たちも或はこれに参加した者があったかも判らない。隣接する立川の立川氏は日奉氏系の西党といういささか特別な由緒を持っていたから、「太平記」その他この時代の資料にも残らないような、小さな無名の一揆でも結成していたのではないかと思われる。しかし昭島にはこのようなはっきりした一族はいなかったと思われるから、或は昭島附近の武士たちは立川氏あたりと一緒になったのかも知れない。又は自分達だけの一揆を結んだのかも知れない。無名の小さな一揆は、それこそ至る所に結成されていたのであった。
 畠山国清が失脚したあとの鎌倉では、次の貞治二(一三六三)年、越後にいた上杉憲顕が基氏に招かれて関東執事(管領)の職についた。彼は二十年以上前の暦応三(一三四〇)年、高師冬と共にこの職を勤めたことがあり、二度目の登場というわけである。憲顕というのは、足利尊氏の従弟に当り、その経歴を見ると建武の新政の折には上野・武蔵・伊豆・越後などの守護を兼ねたこともある、有力な守護大名であった。しかし兄の重能が高師直に殺されたことから足利直義の幕下に奔って直義党の頭株となり、観応の擾乱に際しては尊氏・義詮と戦を交え、敗れて本国の越後に引籠ったという過去を持っている。こんな曰(いわ)く付の、どちらかといえば物騒な男が義詮・基氏兄弟の一致した懇望で、しかも非常に丁重な出馬要請の手紙を受取った上で執事に就任したのである。恐らく畠山国清没落後、鎌倉時代以来の勢力を張る関東の大豪族たちに睨みを利かせることができ、南関東で活溌な動きを見せる国人一揆を押え込み、群小武士たちをその信望で統制し得る実力者としては、憲顕が唯一の存在であったのだろう。たしかに彼の登場以後、関東の政情はともかくもやや穏やかになった。
 やがて貞治六(一三六七)年四月、足利基氏は二八歳という意外な若さで死去し、その子氏満が僅か九歳で関東公方となった。この年はまた京都でも将軍足利義詮が三八歳で薨じた年でもある。将軍職は翌年その子義満が一一歳で跡を襲い、細川頼之が執事としてこれを助けた。このように政治は東西とも幼少の主君が、敏腕な執事の手を借りて政務を見る時代を迎えたのであった。
 こうした時代の隙に乗じて、武蔵ではこの年の宮方一揆・平一揆などいくつかの国人一揆が叛乱を起しているが、此等はあまり大きくならないうちに鎮圧された。この種の叛乱は、宮方一揆(山口氏と河越氏の一部が参加した)という名称からもわかるように、普通反鎌倉→反幕府→宮方(南朝方)という図式をたどるものといわれるが、実際にはもっとこみ入った関係があって、必ずしもこのパターン通りには動かなかったらしい。たとえば下野の大豪族宇都宮氏などがしきりと暗躍し、国人一揆に働きかけてその一部を自らの部下に組織化すると思えば一方では反南朝、反鎌倉府の態度をとるなど、政治上の思惑が二重にも三重にもからみ合って、理解しかねるような奇怪な動きを見せている。このように国人一揆(またこれがさまざまな姿勢をとっていた)、大豪族、鎌倉府の三者が三すくみの形で対立し合い、複雑に接近したり、離れたりをくり返していたので、関東の政情は不安定ながらもやや平穏な状態が続いたのであった。
 こうした状況を築き上げた上杉憲顕は基氏に続いて応安元(一三六八)年九月に死んだが、その後の管領には代々上杉の一族が就任して、まづ大過なく政務を見ていた。そしてこの平和な間に足利氏満も成人し、鎌倉府の力も次第に強くなって、その威令は関東全域を押えるまでに成長した。しかし、そうなればなったで、鎌倉府には次の問題が生じて来た。その強い力を背景に、関東公方が将軍の地位を狙い出したのである。しかしこれは、結局鎌倉府自らの墓穴を堀ることになった。