足利義詮と基氏兄弟は、年も一〇歳離れていたし、世間並からいえば決して仲の良い兄弟とはいえなかった。しかし足利基氏という人は恐ろしく謹直な人物で、その当時上層武士階級の間で大流行していた田楽を、風紀を悪くする好ましくない娯楽だという理由で生涯一度も見物しなかった程の固い男であったから、兄弟の対立によって幕府の屋台骨にひびが入ることを何よりも恐れていた。彼は義詮と自分との間に、かつて尊氏と直義との間で生じたようないさかいが起ることを、何としても喰い止めたいと考えたのである。そこで極力京都との連絡をよくして意志疎通に努め、関東管領の上杉憲顕を中心に政局の安定を図ったのであった。その効果はあってたしかにこの時代は、京都と鎌倉との間柄が最もよくいっていた時期であった。
足利基氏は貞治六(一三六七)年四月に二八歳の若さで死去し、その子の氏満が九歳で鎌倉府の主となり、以後一〇年以上関東に比較的平穏な日々が続いた。その間、上杉憲顕以来代々の関東管領の努力もあって、鎌倉府の勢力は次第に大きくなり、関東全域を完全に押えるようになった。
ところが、成人した関東公方足利氏満は、関東経営に成功した鎌倉府の力を背景に、将軍の地位に野心を抱きはじめたのである。この頃の京都は、基氏に八ヶ月おくれて将軍義詮が薨じたあと、翌年一一歳の足利義満が将軍となって、十数年が経っていた。その間管領として義満を補佐してきた細川頼之は、有能な政治家ではあったがあまりに独裁がすぎるというので他の守護たちの反感を買い、康暦元(一三七九)年になると状勢は非常に険悪になって、今にも戦争が始りそうになった。そこで義満は関東に援軍を求めたのであるが、氏満はこの機会に義満を倒し、自分が代って将軍になろうという密計をめぐらした。
氏満のこの陰謀は、計画を洩らされた時の関東管領上杉憲春が京都と鎌倉の間の板ばさみとなって自殺したため未然に防ぐことができた。憲春の心情を尽した自筆の遺書の諫言により、流石に氏満も思い止まり、義満に対して陳謝の手紙を送って、漸く事態を拾収したのであった。
観応の擾乱の二の舞はどうやら避けることができたが、これによって京都と鎌倉の間には深い溝ができた。氏満二一歳、義満二二歳で共に血気盛りである。以後、東西の間には常に不信の念がともなって、やがて決定的な対立へと発展してゆくのである。
将軍を狙った陰謀に失敗した足利氏満は、恐らくその不満のはけ口もあったのだろうが翌康暦二(一三八〇)年、下野の豪族小山征伐に乗り出した。もともとこの事件は小山義政と宇都宮基綱という下野の豪族同志の、領地のいざこざから始った私闘であった。そこへ鎌倉府がすすんで介入したために、結局小山の方が関東全部を敵に回す破目に追込まれたのであった。氏満は義政がどうしても戦を止めないという口実で関東八ヶ国に動員令を出し、降伏した義政を挑発しては攻撃を繰り返して、とうとう一ヶ月ほどの間に滅亡させてしまったのである。挑発に乗って叛旗をひるがえした小山軍を攻めたのは、上杉一族を主力とする鎌倉軍であった。この騒動を通して鎌倉府は関東の豪族を分断させ、その力を弱めることに成功したのである。それは鎌倉府の権勢をますます強めることであった。