二 東西の不和と上杉氏

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 上杉憲春の死によって関東公方足利氏満の叛乱計画が未然に防がれた康暦元年からあとは、京都と鎌倉との間には表面立った対立抗争は見られなくなった。関東においてはその翌年の小山征伐があり、京都では将軍足利義満が室町北小路に新邸「花の御所」を建てて文字通りの「室町幕府」の時代に入ったり(永和四年、一三七八)、南北両朝の統一が実現する(明徳三年、一三九二)といった画期的な出来事があったりしたが、両者の関係はこじれることなく、約三〇年間は平穏な日々が続いた。この間、将軍は応永元(一三九四)年義満にかわって義持の時代となり、義満は応永一五(一四〇八)年に薨じた。一方、関東公方も応永五(一三九八)年に足利氏満が没し、後を継いだ満兼も義満に続き応永一六(一四〇九)年に死去して、四代足利持氏の時代となっていたのである。
 この三〇年の間、京都と鎌倉との関係は表面的には穏やかであったが、お互いの不信感は少しも解消されたわけではなかった。関東公方三代目の満兼も応永六(一三九九)年、周防の大内義弘と通謀して、彼が叛乱を起した際、その動きに合わせて、幕府援助の口実のもとに武蔵府中や下野足利に出兵して隙をうかがったことがある。幸いその時は大内義弘が、叛乱を起すと間もなく和泉の堺で戦死してしまったので事は表面化しないですんだのであるが、京都側としては満兼の真意は十分察知していたにちがいない。
 こうした状況下にあって、幕府の方も負けてはいなかった。鎌倉府の動きに対抗して、佐竹・小栗・宇都宮といった関東生え抜きの有力豪族を「京都御扶持衆」という名称のもとに鎌倉府を飛び越して個々に直接手なづけ、関東公方への牽制に利用していたのである。どっちもどっちというところであった。このようにして京都と鎌倉との間の不信と疑惑は年がたつにつれて次第につのり、一五世紀初頭にはもはや抜きさしならぬところまで来ていた。関東公方四代目の足利持氏などは、この情勢を踏まえて、京都の下につくことについての不満を、早くから公然と表明していたのであった。
 一方、鎌倉府の内部でも、事情はまた複雑であった。関東管領の職は上杉一族が交代で襲う慣例がほぼ定着していたが、これをねらって上杉氏内部の抗争が次第に激しくなったのである。
 上杉氏は足利氏の姻族の中でも、尊氏・直義の生母を出しているという特別の名家である。前述したように上杉憲顕の時、畠山国清失脚のあとの事態収拾のため、足利義詮・基氏兄弟に特に乞われて関東管領の職に就き、よくその任を果した。以後、この職には上杉一門が交替で就任していたのであった。
 上杉氏は多くの家に分れていたが、その中でも四家が特に有力であった。彼等はそれぞれ鎌倉での居館の地名をとって、扇谷・犬懸・詫間・山内と称した。このうち詫間家は早く山内家に吸収され、一五世紀初頭になると犬懸家と山内家がとりわけ他を引離して栄え、この両家の間で管領職をめぐる深刻な対立が続いていたのである。

上杉氏略系 (=は養子を示す)