このような権力闘争が、遂に戦火となって爆発したのが上杉褝秀の乱であった。この発端は上杉氏内部の管領職の奪い合いにすぎなかったのであるが、深刻な対立はたちまち全関東を巻込む大動乱にまで広がったのである。
応永二二(一四一五)年四月、常陸の越幡六郎という武士が関東公方足利持氏の怒にふれて、所領を没収されてしまった。どんなことで持氏の機嫌を損じたのかよく判らないが、大した原因ではなかったらしい。当時、関東管領は犬懸家の上杉氏憲(禅秀)であったが、たまたま越幡六郎は禅秀の家来だったところから、褝秀は彼のためにとりなし、処分を撤回するよう度々持氏に申入れたのであった。しかし一八歳になって意気盛んな持氏は、要らざる干渉だということで頑として聞き入れようとはしなかった。そこで怒った禅秀は
道の道たる事をいさめす(ず)法外の御政道に随ひ奉りて職にゐて何の益かあらん(鎌倉大草紙巻上)
といって辞表を提出したのであった。彼とすれば関東管領の辞職というのは政治的な大事件となるので、これを武器に持氏を嚇したわけである。ところが持氏は彼を慰留するどころか、まってましたとばかり犬懸家と対立する山内家の上杉憲基を後任に据えてしまった。褝秀は見事に、持氏と山内家にしてやられたのである。
この当時足利持氏は、憲基の父で禅秀の前任者だった上杉憲定と組んで専横な振舞が多かったというので、関東の豪族間にすこぶる評判が悪かった。そこに目をつけたのが、時の将軍足利義持の弟で、将軍の地位を狙って謀叛の機会をうかがっていた足利義嗣である。彼は思惑の裏をかかれて職を追われ、不満に堪えなかった禅秀に働きかけ、関東での叛乱をうながした。鎌倉府と幕府への不平で意見の一致を見た禅秀は、これも関東公方への謀叛の疑いをかけられて、持氏に対して強い反感を持っていた足利満隆(三代関東公方満兼の弟、持氏の叔父)に献策して、持氏にかわって関東公方になるようすすめたのであった。こうして東西呼応しての幕府乗つ取りの陰謀が一年半の間に進められた。禅秀は常陸の小田持家・下総の千葉兼胤・上野の岩松満氏・下野の那須資之・甲斐の武田信満といった、持氏に反感を持つ関東の有力武士たちや自分の一族にひそかに呼びかけ、綿密な準備を整えた。そして応永二三(一四一六)年一〇月二日、禅秀は突如兵を挙げて持氏及び憲基の邸を襲撃したのである。酒宴のあとの寝込を襲われた持氏と憲基は、不意を突かれて手兵もまとめられず、数日間は何とか支えたものの敵わず、持氏は箱根へ、憲基は越後へと退却し、鎌倉を明け渡したのであった。
京都の幕府は、最初この事件を単なる鎌倉府内の私闘程度にしか見ていなかった。しかし段々詳しい事情が明らかになり、実は足利義嗣が一枚加わっていて、京都と鎌倉が通謀しての幕府転覆の大クーデターの口切りだということが判るに及んで驚愕した。禅秀に関東を制圧されると鎌倉府は倒れ、幕府の存在自体まで危くなってくる。そこで急ぎ持氏を援助することとなり、越後の守護上杉房定・駿河の守護今川範政を主力とした討伐軍を編成し、禅秀追討の軍事行動を起した。今川軍は東海道を東進し、上杉軍は北武蔵に集結、そこから大里郡村岡・比企郡高坂・入間川原・多摩郡久米川・関戸・飯田原というルートで鎌倉に向け進撃した。禅秀はこれを入間川原及び武蔵世谷原に迎え撃ち、一旦は勝利を得たものの背後を突かれて敗走し、翌年正月一〇日鎌倉で一族及び足利満隆等と共に自害して、この叛乱は三ヶ月で終ったのであった。昭島附近は直接戦場とはならなかったが、軍隊の通過地として物資の徴発ぐらいは行なわれたかもしれない。
上杉褝秀の乱の鎮定に大きな力となったものに、江戸氏・豊島氏といった有力豪族と並んで国一揆がある。国一揆は前述したように、一五世紀初頭のこの頃にはすでに血縁集団的なものから上州一揆・武州一揆・武州南一揆・入西一揆といった地域集団的なものへ変質しており、ようやく力を増しはじめた農民勢力と結ぶことによって時には無節操と見えるほど実利的な行動をとる集団となっていた。たとえば武州南一揆、これは南多摩郡を中心とした群小武士の集合体であるが、最初は禅秀方につき、彼の旗色が悪くなると見極めると、直ちに見限って幕府側に寝返って、逆に褝秀攻撃の先兵を勤めたほどである。或は昭島附近に住んでいた武士たちも、このような一揆の中に組込まれて、禅秀についたり、幕府に寝返ったりしていたのかとも思われる。