四 永享の乱前後

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 上杉禅秀の乱は三ヶ月で終ったが、それは褝秀たち首謀者が滅んだだけのことであって、持氏に対する不平を抱いたため禅秀に加担した古い豪族たちや、途中から寝返って幕府方に走った武州南一揆のようなものは大部分がそのままそっくり残り、持氏と再び睨み合いの状態を続けていた。ところが持氏は、乱が終って鎌倉に戻るなり実際の政情を無視して、強引に褝秀余党の一掃に乗り出したのである。しかしながら幕府にして見れば、禅秀の乱の時は幕府自体の安危にかかわったため持氏に味方したけれども、乱が平定されて後まで持氏の軍事行動を支持する気は毛頭なかった。ましてその討伐目標の中に、常陸の小栗や下野の宇都宮といった京都御扶持衆が入っている以上、持氏のこの軍事行動は幕府に対する挑戦であり、将軍職への野望があると解釈するのは、これもまた当然のことだったのである。
 鎌倉府と幕府の対立は、応永三〇(一四二三)年持氏が小栗と宇都宮の二豪族を攻めたことによって頂点に達した。しかしこの時は幕府がすばやく京都に無断で軍事行動を起したことに対する問責使を派遣し、持氏もまた客観情勢の不利を覚って早々に幕府に忠誠を誓ったため、どうやら衝突は避けることができた。しかし応永三五(一四二八)年になると、雲行は再びあやしくなった。この一月将軍義持が薨じて後継者がいなかったからである。
 これより先、応永三二(一四二五)年に、義持の子で五代将軍となった足利義量が薨じた。後継者が決まらないまま、政務は父の義持が再び見ていたが、この間足利持氏は鎌倉府の力をたのんで、六代将軍の座を狙い続けてきたのである。しかし幕府の宿老たちは協議の末、義持の弟で青蓮院の座主となっていた義円を還俗させて、六代将軍義教を名乗らせた。次期将軍を予期していた持氏は直ちに兵を挙げて京都へ進撃しようとしたが、関東管領上杉憲実(憲基の子)の諫止に会い、今度は憲実と対立するようになった。
 持氏というのは気性の激しい人物だったが、新将軍となった足利義教も同様であった。それでも関東には上杉憲実、京都には三宝院満済と山名時熙といった穏健派の側近がいて、両者の正面衝突を何とか押えていたのであったが、永享一〇(一四三八)年八月、遂にその努力も水泡に帰した。鎌倉府と京都がとうとう武力行動に出たのである。
 衝突の直接の原因は、先に挙兵を諫止して足利持氏と対立していた上杉憲実が、持氏から忌避されて領国の上野に退いたことである。持氏はこれを追討しようとして鎌倉で軍勢を整え、武蔵府中の高安寺に出陣した。この情勢に対し上杉憲実は幕府に救援を訴えた。以前から持氏討伐の機会を待っていた幕府はこれを口実に直ちに憲実への援助を決定し、上杉持房・越前の朝倉孝景・美濃の土岐持益等に動員令を出し、征東軍を発進させた。
 征東軍は箱根を越えて進み、一方、上野の上杉憲実も一〇月に挙兵して、武蔵国分倍河原まで南下した。持氏自身はもともとそれほど強力な旗本を持っているわけではなく、武力の差はこうなると圧倒的であった。持氏方の武士たちの中でも幕府側へ寝返る者が続出し、分倍河原では戦いらしい戦もせず持氏は敗れた。鎌倉は幕府方についた三浦介一族の手によって占領され、持氏は一旦降伏したのち翌年二月鎌倉永安寺において自殺させられ、関東公方を頂点とする鎌倉府は四代一二〇年で滅亡した。これが世にいう「永享の乱」である。現在の昭島の地は上杉憲実が上野から分倍河原への進撃路に当っており、この付近の武士たちも立川市付近の立川氏などと共にこの戦いに何等かの関与をしたことと思われるが、それに関する史料は何もないので一切不明というほかはない。
 永享の乱は半年で終って鎌倉府は亡びたが、そのあとの関東諸国は各豪族や一揆がそれぞれの思惑で反乱を起したり帰順したり、泥沼のような状態が続いた。殊に持氏の遺児を奉じて常陸の結城氏朝が叛乱を起し、これに同調する者があったりして、その平定には非常な手数がかかった。持氏の遺児のうち唯一人生残った足利成氏が、この乱れ切った関東の秩序を回復するため再び関東公方として復活してくる宝徳元(一四四九)年までには、ちょうど一〇年の歳月を要したのである。