五 立河原合戦をめぐって

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 一五世紀の前半から一六世紀にかけて、すなわち永享の乱以後の関東は、豪族、或はそれに対抗して結集した群小武士の一揆が乱立し、各自の思惑で連合したり、敵対したりして、正に泥沼的な戦国時代であった。従って武士団同志の衝突が方々で見られたのである。
 昭島市の附近も、当然何度か戦場になったことであろう。しかし小さな衝突については記録が残されていないので全く判らない。
 昭島付近を舞台とした戦争で、史書に残るほど大きなものは半世紀ほど間をおいて二回あった。いずれも主戦場の名をとって立河原合戦と呼ばれている。この地域がどこに当るか、各種の説が行なわれているが、いずれも決定的な説ではない。一般的に見れば、拝島から府中あたりにかけての河原、ならびに多摩川をはさんだ段丘上の草原地帯が、広く立河原と呼ばれていたようである。いわゆる立川郷の原野という意味であったろうか。
 現在、府中附近の多摩川地域は分倍と呼ばれているが、この名称は立河原と並行して使用されていたようである。しかし別の地域ではなく、広大な多摩川の立河原の中で、府中を中心としたあたりがそう呼ばれていたのであろう。段丘や台地ばかりでなく、多摩川の流域自体も当時は広かった筈である。
 現在の多摩川はしっかりした堤防が完成して、その流れもほぼ定まっているが、そうした治水が行なわれる以前の多摩川は流域もはるかに広大で、川原には葭や薄が一面に生いしげり、戦場としては格好の平野であったと考えられる。この立河原における第一回の合戦は、足利持氏の遺児の成氏と、上杉氏との間の戦いであった。
 一五世紀の中葉、関東平野において武士たちがそれぞれの思惑で戦争と和睦を繰り返している間に、関東諸国における政治上の実権は次第に山内・扇谷の両上杉家の手に握られるようになった。しかし彼等としても、上杉だけでは関東を完全に押え切るというわけにはゆかなかった。上杉氏が全関東に君臨するためには、やはり権威のしるし、武門の象徴としての存在が必要だということが痛感されたし、他の豪族たちからも、関東武士統合の頂点として鎌倉府があった方がよいという声が次第に強くなってきたのであった。折柄京都でも、将軍義教が播磨の守護赤松満祐に暗殺されるという嘉吉の乱(嘉吉元年・一四四一)が起きたりして、幕府の統制力にひびが入り出した時でもあり、関東に信頼できる下部機構を設置する必要に迫られていた。このように各方面の意向が一致したため、越後の守護上杉房定が斡旋して、先に結城氏朝に擁立されて戦い、持氏の遺児のうちで唯一人生残って、管領細川持之の許に食客となっていた永寿王を元服させ、将軍義政の初名義成から一字を貰って成氏と名乗らせて、関東公方に迎えたのであった。成氏は宝徳元(一四四九)年九月鎌倉に入り、関東公方は一一年目に復活したのである。
 成氏を関東公方にしたのは上杉氏の努力が中心であるが、成氏としては父を滅した上杉氏よりむしろ幼少からなじみ、また自分や兄たちを奉じて戦ったことのある結城・里見・千葉・宇都宮といった豪族たちに親しみ、これに近付くことが多かった。しかし上杉氏にして見れば、関東管領たる自分たちをさし置いて、新公方が常陸・下野・下総方面の豪族たちと直接接近するのは面白くなかったし、より以上に幕府体制維持の上で危険なことでもあった。このため、鎌倉府の中で公方と管領との関係は、再び険悪なものとなってきた。
 享徳三(一四五四)年一二月、成氏が上杉憲忠を鎌倉において誘殺したことから、両者の関係は爆発した。翌年正月、足利成氏は上杉勢を迎え討つため鎌倉を出発し、いわゆる立河原東端にあたる府中高安寺に陣を張った。
 この戦いは、最初から成氏のペースで進められた。成氏は正月二一日、府中からさらに立河原を西進して現在の立川市付近にまで進出し、ここで相模国槽屋(現在の伊勢原付近)から、殺された憲忠の弟房顕を大将として進攻して来た上杉軍を迎えて、数日にわたって激戦を展開したのであった。しかし成氏はまづ立河原で上杉軍に先制攻撃をかけてこれを東方に退け、上杉方先兵の大将上杉憲顕を府中高幡不動に追い込んで自殺させ、翌二二日には同じ立河原の東端にあたる府中の分倍河原で上杉軍の新手と戦って再びこれを撃破するなど、終始優位に立って上杉方を潰滅させた。
 成氏はこのように緒戦においては勝利を得たのであるが、幕府が形成危しと見て駿河の守護今川範忠に上杉氏を応援させたので形勢は逆転した。六月六日、成氏は鎌倉を退却して府中へ落ち、さらに下総国古河へと奔った。
 古河に逃れた成氏は、鎌倉奪回の機会をうかがいながらも遂にその折を得ず、古河公方或は古河御所と称せられた。一方幕府は将軍義政の弟義知を改めて新関東公方として長禄元(一四五七)年下向させたが、先に享徳四(一四五五)年六月成氏との戦の際、鎌倉の街は焼き払われたままとなっていたので、伊豆堀越に居館を構えて落着いた。こうして折角復活した鎌倉府は再び瓦解し、関東の地は下総・常陸・下野等東北方面諸国の反上杉豪族に擁せられた古河公方と、上杉氏ならびに武蔵・相模・伊豆等西南方面の諸国の豪族の支持する堀越公方との二大勢力に分裂したのである。両者は互いに利根川をはさんでしばしば戦闘をくり返し、長期戦にもつれ込んでゆくのであった。
 この戦争の状況は、「鎌倉大日記」・「南方紀伝」・「鎌倉大草紙」等の諸書に見ることができる。ところがこれらのうち前二書は戦闘の地を立河原、「大草紙」のみは分倍河原となっていて一定しない。恐らく拝島から府中にかけての多摩川を中心とした広い地域の、東端部を分陪の名で呼んでいたので、それが地域全体の名称に拡大使用されたと見るのが妥当であろうと思う。
 第二回目の立河原の合戦があったのは、第一回から約半世紀後の永正元(一五〇四)年九月のことである。今度の戦いは山内・扇谷両上杉氏の勢力争いで、いわば上杉一族内の御家騒動に近いものであった。もっとも、同じ上杉を名乗ってはいても両家が分れてからすでにかなりの年数と世代を経ており、彼等にして見ればお互い親類という意識はとっくになくしていたのであろう。
 古河を本拠とする足利成氏はこれに先立つ明応六(一四九七)年に死去したが、一五世紀末には彼の勢力も単なる一地方豪族になり下ってしまい、政治上の影響力を持ち得なかった。一方上杉に擁せられた伊豆の堀越公方も、上杉氏が強大になると共に不必要なお飾り的存在と化し、遂に延徳三(一四九一)年新興勢力である北条早雲のために滅されてしまった。そして仲の悪い両上杉氏だけが残ったというわけである。
 一六世紀に入ると、扇谷上杉氏は武蔵の河越と江戸をその拠点とし、山内上杉氏は上野の白井と武蔵の鉢形を中心に、さらに入間郡の上戸に出城を築いて、扇谷家の河越城に対抗していた。両家の対立は遂に武力抗争にまで発展し、永正元(一五〇四)年八月、まず山内家の上杉顕定は上戸から進撃して河越城を攻めたが守りが固く容易に落ちそうもない。そこで急拠攻撃目標を江戸城に変え、仙波から転進して白子(現在の朝霞市)に達し、江戸攻めの布陣を完了した。このため扇谷家の上杉朝良は伊豆の北条早雲・駿河の今川氏親に救援を求めた。以前から両上杉家の争いに介入する機会を待っていた早雲はすぐこの乞に応じ、たちまち軍勢を率いて九月一五日には多摩川南岸の稲毛に着き、現在の稲田堤の桝形山に陣を張ったのである。
 この北条氏の進出が予想外に早かったため、戦闘の主導権を握っていた山内上杉軍の作戦には大きな狂いが生じた。扇谷上杉家は東の江戸城のほかに、現在の高尾附近にあたる椚田に西の出城を持っていた。そして今また北条軍が、その二点の中間の桝形山に進出してきたのである。そのため山内上杉軍としては、二つの城による扇谷上杉軍の勢力を分断できなくなったばかりか、山内上杉軍を囲んで河越-江戸-桝形山-椚田という包囲陣が出来上り、逆にとり込められそうな形勢になってきた。そこで上杉顕定は止むを得ず江戸城攻撃を中止し、扇谷上杉軍の手薄な多摩川上流から相模に進出しようとして、再び転進して立河原に陣を張ったのである。
 九月二〇日から二三日にかけて、おくれて進軍してきた今川氏親の軍も桝形山に到着し、二六日、扇谷上杉、北条、今川三氏の連合軍は桝形山を出発、途中野営して翌二七日正午頃立河原に達し、山内上杉軍と激しい戦いを展開した。この行軍が多摩川南岸伝いの当時の甲州街道を進んだか、或は北岸武蔵野台地伝いの、当時脇道であった現甲州街道をたどったかは明らかでない。或は大軍であったから、二手に分れて攻めたかもしれない。いずれにしても広い地域におけるかなり大がかりな合戦であった。しかし夕刻までにほぼ勝負がつき、山内上杉の顕定は二〇〇〇騎あまりを失うという大損害を受けて、その夜立河原を脱出、本拠の鉢形城に逃げ帰ったのである。
 以上が第二回目の立河原合戦の概況であるが、この戦はこれだけでは終らなかった。翌一〇月、上杉顕定は越後からの援軍を得て河越城を攻めると共に扇谷上杉軍を追い払って再び立河原附近を制圧、一二月には椚田城を攻め落して、遂にこの方面から相模へ進出する宿望を果した。かくしてこの立河原附近は、翌永正二(一五〇五)年三月山内家の上杉顕定と扇谷家の上杉朝良とが和睦するまで、小ぜり合いが絶えず繰返されていたのである。
 第二回立河原合戦の事蹟は「相州兵乱記」・「鎌倉九代後記」・「北条五代記」といった合戦記録や、「松陰私語」・「宗長手記」・「今川氏親出陣千句」といった当時の人の著作にも載せられているので、かなりよく知られている。しかし九月の合戦のほかに一〇月・一二月と小さな戦闘が何回も行なわれているので、中には「鎌倉九代後記」のように立河原で上杉朝良が負けて河越を囲まれたなどと記述しているものもある。これは明らかに、一〇月以後の戦闘の記事と混同して間違っているのである。
 立河原の合戦の存在を示す物的証拠として、現在立川市の重要文化財になっている戦死者供養鉦鼓がある。入間郡附近で発見されたものという。総高六・九センチ、直径一九・二センチ程のもので、銘文によって当時の北武蔵の豪族の一人毛呂土佐守顕季が、九月二七日の戦の死者を供養するために発願したことが知られる。毛呂氏は山内上杉方で、この日二千の戦死者を出して敗退した側であるから、こうしたものが造られるのもうなづけるわけである。