やぶさめの図
以上のような戦乱の時代に、歴史の主役をつとめた武士たちは、いったいどんな暮しをしていたのだろうか。
武蔵国に、裕福な地頭がいた。財力がある上に慈悲深く、心掛の良い人であった。近くに別の地頭がいたが、こちらの方は何故か不幸続きで振わず、所領を年々売却しなければならなかった。先の地頭はそのたびに、黙って土地を買い取ってやっていた。さて、貧しい地頭はとうとう所領をすべて売尽したあげく死んでしまった。一人残された息子は住む所もなく、仕方なしに親類の間を転々と居候してまわらなければならない始末。同族たちも流石に気の毒がったが、お互い小領主ばかりなので面倒を見てやることができない。そこで、あの裕福な地頭は慈悲深い人だから頼んで見ようと申し合わせ、親類一同が連れ立って面会に行き、せめて屋敷一箇所だけでも息子に与えてくれまいかと歎願した。裕福な地頭は何も言わずに聴いていたが、やがて当の息子を呼んで今後は親しくしようといって酒をすすめ、今日の引出物だよと、今迄買取った所領の証文をまとめて、すべて息子に返してやった。息子とその一門は彼の情深さに大感激して、以後その地頭を親とも主とも頼むことになったという……。
これは鎌倉時代の説話集「沙石集」の巻九に収められた物語である。いくら万事大様な鎌倉時代にしても出来すぎた話で、とても実話とは思えないが、当時の武士の暮しについて知る手がかりのいくつかを与えてくれる。すなわち、武士、とくに東国の武士というものの大半は、自分たち家族だけで暮してゆくのが精一杯の小地主であった。武家政権発祥の地であり、「武門の吉土」と呼ばれる鎌倉を含んだ関東であっても、数え上げられるような大豪族を除けば、あとは本家だろうと分家だろうと、似たりよったりの小領主に変りはなかった。従ってその生活にはかなり不安定な要素があって、何かの都合で所領からの収入が得られなければたちまち困り、領地を売却する破目に追込まれる危験があった。裕福な武士が領地を増やしてますます豊かになる一方、領地を失って、他人の係人(かかりうど)か従者に転落した武士も少くなかったであろう。それ故軍人としてまた地主として、彼等は何としても第一に所領を確保するよう努力したのである。「一所懸命」という現在まで残る言葉が示すように、彼等の所領--それがすなわち収入に直接響いた--を守り、同時に少しでも支配地を広げようという気持はすさまじかった。荒地を拓き、時によっては口実を設けて他領を侵略することも珍らしくなかった。それを防ぐために、武士は常に戦の準備を怠らず、小領主同志は一揆を結んで団結し、或はこの説話に見られるように有力な武士の配下となってその威を借りたりしたのである。