平安時代まで、どちらかといえば「文化果つる所」と見倣されていた東国にも、鎌倉時代武家政権の誕生と共に大きな変化が訪れてきた。交通路の改変もその一つである。
奈良時代以来、相模国府(現在の二宮附近)から夷参(いさま)(座間)を経て武蔵国へ入った東海道は、店屋(まちや)(町田)→小高(中原)→大井→豊島(北区内)と通って下総国府(市川市鴻ノ台)へと連絡していた。また店屋からは北に別な道が分れて、武蔵国府(府中市)に至り、さらに東に折れて乗潴(あまぬま)(杉並区天沼)を経て豊島駅で再び東海道に合流していたのである。
しかしながら鎌倉が全国の政治の中心となると、ここに往来する人間の数が非常に増加した。また幕府は奥州の土地を御家人に分与しており、越後・信濃・武蔵が将軍の分国となった関係から、鎌倉と武蔵国府、さらに上・信・越及び奥州に直結する道路を、政治上・軍事上からも必要とした。古代ローマがヨーロッパ各植民地との連絡道路網を持ったのと同じ発想である。今日、鎌倉道とか鎌倉街道とかいう名前の残っている道路をよく見かけるが、これは「すべての道は鎌倉へ」の構想で、東国各地と鎌倉とを直結しようとした当時の要路の名残りである場合が多い。
正安三(一三〇一)年に編まれたという歌曲集「宴曲抄」の中に、「善光寺修行」の題で鎌倉から善光寺までの道行きを歌った歌謡が収められている。そこに見られる鎌倉→十日市場→成瀬→関戸→府中→恋ヶ窪→久米川→所沢→堀兼→入間川→女影→森戸→今宿→大蔵→奈良梨→児玉→倉賀野→碓氷峠→善光寺というルートはまた、鎌倉時代から南北朝・室町時代にかけて、鎌倉より上信越に至る重要な幹線道路として、幕府の意向を体して開かれた路線でもあった。これとは別に小平から分れて狭山丘陵を越え、宅部より山口・北野天神を経て入間川でこの道に合する道路もあった。また小手指原から直接藤沢に達するルートも開かれていた。吾妻鏡などにしばしば記事が見える東国、或は武蔵国の開拓は、このような道路網に沿って、その発達と共に進んでいったようである。後になると武士も次第に職業軍人化してしまうが、鎌倉時代は武士とはいっても半農半兵の屯田兵的な生活者であり、平和時は自給自足を原則とする、封建的な農業経済を基盤とした農民であったから、彼等は関東平野の諸方に散在して熱心に土地を拓き、農業に従事したのであった。しかし一般的に水利の悪い武蔵野台地の開拓は相当に困難で、牧場はつくれても田畑にするのはかなりおくれていたらしい。