三 武士の館

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 それでは、現在まで知られているところをまとめて、中世の武士の生活を眺めてみよう。政治的にはかなり大きな変動はあったが、生活文化史的に見た場合は、鎌倉時代から室町時代にかけて、それほど画期的な変化というものは見られず、ごく緩やかな進歩が続いていたのであった。以下記述するところは、石井進氏・遠藤元男氏等の研究成果に負うところが大きいことをお断りしておきたい。
 武士たちの住んでいる屋敷のことを、館(やかた)と呼ぶ。武士は軍人でもあり、また開拓地主でもあったから、彼等の館は彼等自身が拓いたり、或は人を使って拓かせた耕地のそばにあった。関東平野をゆるやかに流れる多摩川・荒川・利根川などの大きな川が、低湿地に土砂を堆積した自然堤防の上や、草や雑木の茂った武蔵野台地の、川に臨んだ端の段丘上などが開拓の目標となり、こうしたところにまづ田畑が作られ、耕作に当る下級農民たちの集落が生れた。そうした村の全体を見下せるような高台や、台地から川べりにかけて一面田が広がっているのを見渡せるような位置を選んで、武士たちの館が造られていた。そこはまた鎌倉との連絡のよい道路につながってもいた。いざという時、行動の迅速さが必要だったからである。
 武士の館は、普通一辺が一〇〇メートルから二〇〇メートルぐらいの、ほゞ正方形に近い敷地を持っていた。敷地の周囲は水を満たした深い堀や、大きな空堀が巡らされ、堀り上げた土を内側に盛り上げて、柵だの生垣だのが作られていた。現在でも時折、こうした堀の遺構が残っているのを見かける場合もある。大きな館になると敷地は更に広く一辺が数百メートルに及んだり、二重の堀をめぐらしたり、二つの正方形の敷地を堀で結ぶといった手の込んだ形式のものもあった。こうした館を人びとは堀ノ内、土居(どい)(土手の意味)、垣内(かいと)、館(たち)、館(たち)ノ内などの名で呼んだ。堀や土塁、柵などは館のシンボルでもあったわけである。この種の地名は関東地方は勿論、全国いたるところで見ることができる。その殆んどがその昔、武士が館を構えていた名残りを示すものと考えられる。関東地方では段丘や扇状地を中心に、このような大小さまざまな館が、それこそ無数といってよい程散在していたのである。

武士の館(『粉河寺縁起』より)