六 衣と食

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 武士の服装は直垂と袴が常着であった。女性も袿(うちぎ)に袴であり、男女とも二部形式をとっていたのである。しかし家の中でくつろぐ時は男女とも小袖(こそで)という、今日の和服の原型ともいうべき服に袴が平服となった。もともと小袖というのは下着であったものが、時代が降ると共に上着として着られるようになったのである。さらに袴もとって、小袖着流しという姿も後には行なわれるようになった。小袖には単(ひとえ)・袷(あわせ)の別があり、上等品は絹が、一般には麻が素材として使われた。木綿はまだ知られていなかった。男女ともに足には指股のある革足袋をはき、草履をはいた。男子は兜を着けるところから次第に月代(さかやき)を剃る露頂の風が広まったが、外出する時は勿論、家の中でも寝る時以外はいわゆる侍烏帽子(さむらいえぼし)をつけていた。女性の化粧法も進んで来て、白粉として鉛白が使われるようになった。これは京白粉・伊勢白粉というように産地によって商品化されたから、関東地方にも恐らく行商人等の手で持込まれて来たであろう。しかしまだまだ、一四世紀あたりの東国では珍らしく、贅沢なものであったと考えられる。その他黛(まゆずみ)や紅、お歯黒なども行なわれていたようである。
 武士は衣生活も比較的簡素であったが、食物の方はさらに質素で、食事も粗末なものであった。まだ米の精白は一般には普及しておらず、武士たちの殆んどは玄米を食べていた。しかし鎌倉時代末ごろからは、従来の米を蒸した〝強飯(こわいい)〟にかわって、今日の飯に当る、米を煮た〝姫飯(ひめいい)〟が好まれ、普及するようになった。副食は野菜とか魚類が中心であった。一四世紀ごろから刺身とか膾(なます)といった生魚の調理法が広まってきたが、海から遠い関東内陸部の武士たちは、川魚以外はやはり塩物・干物として食べることが多かったであろう。武士はその性質上獣肉や鳥肉を口にする機会が多かったと思われるが、魚同様焼いたり、煮たり、汁物にしたりして食べたものと考えられる。調理法としてはほかに醤(ひしお)(塩辛のようなもの)・漬物・鮨(いわゆるなれずしで発酵させたもの)などがあった。なお禅宗の布教活動と共に麺類・豆腐・心太(ところてん)・蒟蒻(こんにゃく)といった加工食品も、次第に武士の食卓に加わるようになった。調味料として始めて未醤(みそ)(味噌)が出現したのも一三世紀頃からである。未醤は最初嘗物として使われた。「徒然草」二一五段には北条時頼が友人と夜おそく酒を飲むのに、台所の棚から小皿に味噌が残っているのを見つけ出して、これを肴に一杯やったという話がのっている。この味噌製造の過程で桶の底に溜ったものから改良されて、室町時代になると醤油が製造されるようになる。そのほか梅干も食べられた。梅干はことに出陣の祝の肴として珍重された。
 食事の回数は三回が通常となっていた。一四世紀になると喫茶の風は全国的に広まって、当初の薬用から次第に嗜好飲料へとその性格を変えていった。但し、まだ煎茶は普及せず、主として抹茶を飲んでいたようである。