開拓地主である武士はまた、農業の経営については常に工夫を怠ってはいられなかった。自分の支配する所領から少しでも多くの収穫を上げ、年貢を増徴して館の経済を潤沢にしてゆくために、さまざまの農業技術の導入や器具の改良が行なわれた。一三世紀頃から水車を使う揚水灌漑の技術が普及し、水利が悪くて開拓のおくれていた武蔵野台地にも次第に水田が多くなった。一方領主を中心として用水管理の法則も整備されて、用水溝からの分木(ぶんぎ)による分水や番水という時間給水のルールが確立した。水田における麦の裏作や、畑での夏麦と秋麦、麦と大豆や蕎麦といった二季作が行なわれるようになったのも同じ頃からである。これは鉄製の鍬・鎌・鋤・犂といった農器具の普及や、それを牛馬に引かせて深く耕すことができるようになったことによるところが大きい。鉄製農具の需要増は金属工業の発達をうながし、刀を作る刀鍛治と農具鍛治とが分離して、専門化しつつ一層の改良発展が見られるようになった。
農具以外の道具について見ても、滑車と組合わせた輾轤、すなわち原始的な起重機が普及して、これは館の建設或は灌漑用水の掘削といった土木建築技術を進歩させた。また転(ころ)とか梃子(てこ)とかいった力学的技術の応用も見られたのである。
このようにして武士は、軍人として、また領主(地主)としての生活を営んでいた。そして農業生産力の向上による経済的余裕や、交通の発達にともなう商品流通の増加などによって、その生活は次第に向上していったのである。室町時代も末近くなると、武士の生活もかなり近世的な、現在の我々の知っている衣食住に近いものとなっていたのであった。