板碑というのは、中世に特有の石造仏教遺物である。板仏、或は平仏と呼ばれたり、板石卒塔姿といった別名からもうかがわれるように、これは単なる板状の石碑ではない。仏を供養するための石製の板状卒塔姿なのである。
板碑についての詳細は、すでに服部清五郎氏の有名な「板碑概説」をはじめとして多くの研究が公にされているので、今また繰り返すまでもない。服部氏の説によれば、時には墓標乃至墓碑と見るべきものも見られるそうであるが、板碑の大半は供養のための卒塔姿と見て差支えないと考えられる。
板碑が現われるのは中世初期、鎌倉時代のことで、現存するものとしては埼玉県大里郡の嘉禄三(一二二七)年の板碑が最も古い。以後南北朝時代を最盛期として一六世紀の室町時代まで、板碑は信仰の対象物として青森から鹿児島に至る日本全土において建立されたのである。
板碑の分布は今述べたように日本全国にわたっているのであるが、その中でも武蔵を中心とした関東一円が特に著しい。これは板碑の材料が俗に秩父青石とも呼ばれる、荒川上流でとれる緑泥片岩であることに関係があると思われる。武蔵についで濃い分布を見せるのはやはり緑泥片岩のとれる四国の吉野川沿いの一帯であることからもうなづける。
武蔵国を中心とした関東一円の板碑には、板碑の専門家が「武蔵型板碑」と名づけているようなほぼ統一されたタイプがある。これは板碑の標準形式といってもよい。その共通する特色をあげると
一 材料として秩父青石といわれる緑泥片岩が使われている。
二 長方形の板状と呈し、頭部はやや偏平な二等辺三角形に作られ、三角形の下に一条~三条(ほとんどが二条)の横線が入っている。
三 表面はよく磨かれてその上部に阿弥陀一尊、或は三尊、又は釈加等の種字、もしくは仏像を陰刻し、その下方に紀年銘や造立願文、施主名、経偈の文言等を記したり、花立等を陰刻している。
四 尾部はほぼ三角形に整えられて、台石や地面に差して立てるのに便利なようになっている。
といった諸点である。武蔵国の板碑はほとんどこの標準型によるもので、他地域のものと比較すると製法や彫刻技術の上で芸術的にはるかにすぐれたものが多い。