昭島地区は多摩郡に属しているから、当然この中心地域に含まれる。しかしながら隣接する立川市等にくらべて、市内に現存する板碑はきわめて少なく、市の調査によれば四一基を数えるにすぎない。文政一一(一八二八)年編纂の「新編武蔵国風土記稿」を見ると、かつてなお少くとも一一基が市内にあったと思われるが、現在では失なわれている。
観音寺の板碑群
昭島市内の板碑に関しては、すでに昭島市文化財専門委員の石田健造氏によって精力的な調査が行なわれ、その報告が刊行されているので、この資料に基いて概略の考察を述べることにしたい。
現存の四一基の板碑は、別表の一覧に示すとおりである。年号が判読できるもののうち最古のものは阿弥陀寺蔵の建治三(一二七七)年の在銘の板碑(No.20)で、最も時代の下るものは観音寺蔵の延徳二(一四九〇)年のもの(No.17)である。このほか広福寺所蔵にかかる元和八(一六二二)年在銘のものがあるが、(No.32)、これは形状・様式・刻された法名からいって近世墓が誤ってリストアップされたものと思われる。
年号のある板碑で、南北朝時代に属するものは文和・延文・応安など、すべて北朝の年号が銘記されている。これは、昭島附近の武士たちの動向を知る上での一つの手がかりとなろう。南北朝時代の関東は、別項でもふれたように宮方(南朝)・武家方(北朝・幕府方)の二勢力がそれぞれ複雑な力関係で集合離散を繰り返し、対立・衝突が絶えなかったのであるが、昭島附近に南朝の年号が全く見られないということは、このあたりが終始一貫して武家方、すなわち北朝と幕府方の勢力圏内にあったということを示すものである。
昭島市内現存板碑一覧表
また、阿弥陀寺蔵の嘉暦四(一三二九)年一〇月二二日在銘の板碑(No.21)は当時の情報伝達についての一資料ともなろう。実は京都においては、嘉暦四年は八月二九日に改元し、元徳元年となっていたのである。この頃は正中の変と南北朝対立との中間で、後醍醐天皇と幕府の間はお互に疑いながらも一応小康状態を保っていた時期である。もしこの板碑が偽物でないとすれば、関東の田舎には改元のニュースは二か月近くも伝わっていなかったということになる。戦乱その他情報伝達が妨害される要因もないのに改元のしらせがこのようにおそいというのは、関東の武士たちは年号などにあまり関心を抱かなかったという例証ともいえよう。
板碑に記された種字はすべてキリーク、すなわち阿弥陀如来である。これに加えて、サ(観世音菩薩)、サク(勢至菩薩)の種字をならべ、阿弥陀三尊の形式をとったものもある。種字がすべて阿弥陀ということは、この附近の武士たちの間に浄土信仰がかなり普及していたことを示すものといえよう。種字の大半に蓮座が付属している(別表「主尊」欄にW印をつけたもの)のは、立川市の板碑などと共通する特徴である。
銘文を記したものが残っていないので、此等の板碑はその建立の由緒を知ることができない。しかし人名を刻したものが一一基あって、それらはその人々への供養として造られたものであることが判る。その中に文正元(一四六六)年八月造立の逆修道金禅門銘の板碑(No.15)がある。〝逆修〟とは生きているうちに予め自分の死後のために供養して冥福を祈るという例にも使われるが、板碑の場合は老いた親などが生残って、先に死んだ若者のための冥福を祈る供養という意味で使う場合が多い。文正元年といえば、六月に幕府が東国の諸将に号令して古河公方の足利成氏を討たせた年である。想像を拡げるならば、成氏討伐の一員として古河に出征し、運悪く戦死した息子のために父親が造立したものと考えられなくもない。六月と八月で、ほぼ時間的にも適応するのである。
文正元年8月の銘がある板碑(観音寺蔵)