一 中世の武蔵野

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 今まで述べてきた戦乱の記述は、そのほとんどが多摩川を中心とした武蔵野をめぐっての動きであった。たしかにそれは武蔵野の一部分をなす地域ではあるが、一般に武蔵野といえばそれよりはるかに広大な地域を指し、古代から中世にかけては、明確な境界もわからないまま放置された原野も多かった。ここでは昭島地域ということからはややそれるが、中世における武蔵野一帯の景観についていくつか考察してみることにしよう。現在の昭島市を中心とする地域も、当然その中に含まれることになる。
 武蔵野という全体の区域は、古利根川・秩父連峰・相模野を結ぶ地域で、関東平野の大半を占める大平原である。入間川や多摩川に沿っては早くから村落が開け、国府も多摩川に沿った府中に置かれた。延喜式には都まで上り二九日・下り一五日という旅程が定められているが、そのルートは前にも述べたように武蔵国府から現在の座間へ出て、東海道をたどったものである。
 武蔵野が本当に開発されて、田や畑が至るところに広がるようになったのは一七世紀末から一八世紀初頭にかけてのことで、実はそれほど古い話ではない。それ以前の武蔵野は「文化果つるところ」で太田道灌は勿論のこと、そのずっと前から至るところに一望千里の原野が残されたまゝであった。平安時代以降人口も次第に増え、処々に荘園が開かれるようになり、無数の小武士が、開拓地主として館を構え、所領を確保するようになったといっても、まだまだ手がつけられる地域は限られていた。武蔵が馬の名産地であり、方々に牧が置かれていたという事実が、武蔵野の開発がおくれていた一つの例証とも受取れるのである。