武蔵野の広大な景観については、古来から歌枕などによく詠じられている。武蔵野を見たこともない都人でも、行けども果てしない一面の草原というイメージは強く持っていたらしい。これはどうやら「更級日記」が
紫生ふと聞く野も、芦荻のみ野高く生ひて、馬に乗りて弓持たる末見ぬまでたかく生ひしげりて、中をわけ行くに、竹芝といふ寺あり。
と寛仁四(一〇二〇)年の旅行の回想を書いたあたりが始りであろう。「新古今集」(元久二〔一二〇五〕年撰)には
行すゑは空もひとつの武蔵野に草の原よりいづる月かげ 後京極摂政
という歌があり、また「続古今集」(文永三〔一二六六〕年撰)には
武蔵野は月の入るべき峰もなし尾花が末にかかる白雲 通方
あふ人に問へど変らぬ同じ名の幾日になりぬ武蔵野の原 後鳥羽院下野
という有名な歌が収められている。殊に後の歌の作者は後鳥羽院の女房で、その名から推せば恐らく下野守か介か、東国に縁の深い地方官の娘であると思われる。多分赴任する父に伴われて一三世紀はじめごろ下野まで往復し(下級の貴族としてはその方が経済的に大いに有利であった)、その途次武蔵野の広大さを自分で体験しての歌であろう。単なる空想の歌枕を越えた、素直な実在感がこもっているのはそのせいだと思われる。さらにこれ以後の諸歌集、すなわち「夫木集」「玉葉集」「続千載集」「続後拾遺集」といった一四世紀に編まれた和歌集には、必ずといってよいほど武蔵野を詠じた歌が数十首乃至数百首収められているが、しかしながら先の「続古今集」のような秀歌は見られない。
その大半は「続千載集」の
武蔵野や入るべき峰のとほければ空に久しき秋の夜の月 久明親王
のような実感とは遠い本歌取りの歌に終ってしまっているのである。