武蔵野のうちでも多摩・入間両郡を中心としたあたり、入間川・荒川・多摩川に囲まれた東西約四〇キロメートルの武蔵野台地は、水利が悪かった関係もあって開発が特におくれていた。平安末から鎌倉にかけて武蔵野の開発が大いに進み、鎌倉街道をはじめとする交通路が重要地点を結んで縦横に通ずるようになっても、武蔵野台地だけは一番取残されていたらしい。
徳川幕府の新田開発政策で「武蔵新田」という田があちこちに作られるようになった一八世紀になってからでさえ
武蔵野は府の西、中野の先をいへり
と享保一七(一七三二)年刊の「江戸砂子」が書いているところをみると、この頃でも武蔵野台地は武蔵野の面影をよく伝えていたのであろう。その前、室町時代には、この武蔵野の景観は比企郡や大里郡の方にまで広がっていたようである。
室町時代の武蔵野の景観については、一五~六世紀にかけて著されたいくつかの紀行文によってその様子をうかがうことができる。この頃になると道路も次第に整備され、遠隔地を結んだ商取引も活発となって、商人の往来も頻繁になってきた。また僧侶の回国旅行も行なわれたし、さらに武士たちの間に連歌が流行して、その職業的指導者である連歌師たちが、地方の有力武士に招かれて旅行するということもしばしばあった。
一六世紀の、室町末期というのはいわゆる戦国時代である。戦国といい、乱世といい、合戦の時代といえば、日本全国どこへ行っても明けても暮れても戦争ばかり、家が焼かれ良民が殺されるといった情景をつい考えがちであるが、しかしこれは近代総力戦の観念で当時の戦争を考えた錯覚である。たしかに方々で戦争は行なわれたが、それはごく局地的に行なわれるので、戦場から一寸はづれてしまえばもう全く別の世界だったといってよい。また戦争にしたところでいつまでも続くというものではなく、数日にわたる合戦が終ればたちまちもとの平和を取戻し、迂回して通っていた旅人の往来も復活するという性質のものであった。つまり平和な本来の時期のうちに時々戦争が起っていたので、ベトナム戦争のようなゲリラ戦が毎日続いていたと思うと大きな間違いなのである。さらに戦いは専ら武士たちだけの間のものであり、兵卒として戦場に駆り出されるのを免れた農民や、行商人や、僧侶や、連歌師たちにとっては直接関係のないことであった。(勿論何等かのとばっちりはあったかもしれないが)